自分の世界に溺れて鬱屈としている時が良くある。と、これは誰にでもあるのだろう。その鬱屈を見ないように資格の勉強をしたり、趣味を作ったり、気晴らしをしたりする。私もそうだ。キリル文字が気になっていて、昨日はロシア語の勉強をして、キリル文字のアルファベットを沢山書いた。字に馴染みがないので、文字を書きうつす時は手とか林檎を見て絵を描くような感じがした。何故かなんとなく、多言語習得しようと思った。理由は何だろう。目の前のこと、生きること暮らすこと、新鮮に感じられるからだろうか。そういう人になって見える世界が気になる。林檎をみて、りんごと思うのだろうか。違う言葉として思うのだろうか。文章を書いているという良くあることが、当たり前に誰かにとっては違う言葉なのだ。そうすると私は何か見えていないものが沢山あることになる。勿論全て見切ることはできないのだけれど、もう少しは見たい。見えているものに飽きているのかな。
中国語も漢字で似ているから良いんじゃないかと思ったけど、難しそうだった。簡単な言葉はないと思うけれど。似ているからこその難しさか。夢をゆめとか、むと読まないことがわからなくなる。一方、ヘブライ語とか、アラビア語とか、日本語とかけ離れて見える言葉は全くの赤ちゃんとしての状態で向き合えるので素直になれる。
こうして今まで書いていて、日記という性質もあるからかもしれないが、私は私が言語というものに非常に興味を持っていることがわかる。これは一つ、暮らしたり活動したりする上で何か向き合うべきテーマがここにあるという気がしている。気がしたい、のかもわからないけれど、そういうことにしておこう。言葉を学ぶことが絵の為にもなっていくと信じている。
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