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6月, 2022の投稿を表示しています

道具の使い方

  エアコンが直った。直ってみると昨日までどうやって生きていたのか謎である。サウナのような部屋の中で裸で扇風機の強の風を至近距離で当てながら暮らしていた気がする。 正午頃と寝る時が辛かった。気温で性格も変わる気がする。夏の私と冬の私は違う。朝と昼と夜も違うかもしれない。 絵の支持体作りをした。かなり地味な作業なので作りながらyoutubeを見るようにしている。私はインプットをするのは大切だと思いつつ、ただ見るということができないので、こういう風にながら見をするのは良い。支持体は家に届くチラシをケント紙にコラージュとして貼り合わせてからジェッソを塗る。そうするとうっすらコラージュした部分が見えるようで見えない感じになり、また、貼り合わせた継ぎ目がでて、紙も少したわむ。この、たわむのは少し想定外で、おそらく絵を描く人は避けたいことだと思うのでどうかなと思ったのだが、琉球グラスの存在を思い出し、たわみを活かすことにした。琉球グラスというのは沖縄のガラスで、明治時代からあるようなのだが、私が関心があるのは戦後に生まれた素敵なコップや器の方である。物資の不足により今までと同じ作り方ができなくなったガラス職人の人たちは米軍の人が捨てたコーラや酒の瓶を砕いて溶かし、そのガラスを再利用したのである。しかし、当時のガラスというのはあまり質が良いものでは無かったらしく、再利用ガラスにはどうしても気泡が入ってしまう。戦後の琉球グラスが生まれるまでは、ガラスのコップに気泡が入るというのは未熟な職人の証であったので避けられていたのだが、物資が不足しどうしてもコーラの瓶やらで作らなければならなかった沖縄の職人達はむしろその気泡を活かしてどういうグラスを作るかという方法にでたのである。万事塞翁が馬。足りない状況から捻り出したアイディアが足りている人の心を動かしたりする。使いたい物が手に入らないとか、お金が無いとか、才能が無いとか、他の人に比べて自分はこういうことができないというコンプレックスとか、自分にもあるけれど、それを克服する過程がユニークな、オリジナルなものだと思うのだ。こう書くと強くなって乗り越えろみたいな根性論に聞こえるが、そしてそれでも良いのだが、この琉球グラスの場合はそういうことではなく、そうなってしまうということを活かすという発想があるのである。そして私も物事にはそのよう...

Something is never change

熟睡そして起床。まだ眠れそうだが、そうするとそのまま一日がグダグダになるので顔を洗う。 お米を炊いて納豆卵かけご飯と肉野菜炒めと味噌汁を朝食にしよう。冷蔵庫を開けると豚肉と野菜炒め用のミックス野菜の賞味期限が切れていたので捨てた。こういう時、野菜はともかくとして豚肉は少し申し訳ない気持ちになる。ごめんなさい。 購入日から一週間くらいは賞味期限がある食材をなるべく買うようにしようと思った。二日間、寝る時以外はほぼ家にいないみたいな時にこういうことが起こる。今日捨ててしまった豚バラ肉やミックス野菜は足が速いのでなるべく避けよう。 新しくスーパーで何か買って自炊しようと思ったが、天丼が食べたいと思ったので結局てんやに行った。てんやまでは歩いて結構時間がかかるのだが、散歩がてら音楽を聴きながら。暑いとファンキーなのが似合う。洋服もそうなのかもしれない。家にある服を適当に選んで着て外へ出る私も無意識に黒っぽい洋服を避けがちになっていることに気づく。 てんやに向かうまでの道中、スポーツ用品店の前を通った。懐かしいが何の曲だか思い出せない音楽がかかっている。夏に調子良い前のめりでアップテンポな曲だ。Aメロ Bメロ サビから成り立つ曲は言葉は違えど世界中で人気がある。 Shazamというアプリで曲名を調べる。The Offspringだ。All I wantという曲。ポップなパンクバンドというようなイメージだったが歌詞を調べると結構尖っている。お前のルールなんて知るか。 その人にとって歌詞のわからない音楽はメッセージソングの歌も意味の伴わない音の一種として聴こえてしまうので、そのことは昔から色々思うところがあるのだが、良いところもあると思う。 とりあえず暑い。滝のような汗。オフスプリング。サマー。てんやに行かなくちゃ。私と似たような感じでふらふらした人影が見えたので見るとおじいさんが戦士の剣と盾のように缶チューハイを右手に、プラカップを左手に持っていてとても幸せそうでなんか良かった。胸ポケットに入った機械から昔の歌謡曲が小さい音で流れていた。 あらゆる街に外で一杯ひっかけ、イヤホンをつけず音楽を流しているおじいさんがいるのだが、全員昔の日本の歌謡曲か演歌、それかラジオを聴いている。ヘヴィーメタルおじいさんとかはいないのだろうか。このことが気になる。 昨日の夜、駅から自宅までの帰り道...

身体1

  疲れていたがなぜかほぼ眠れずヘトヘトになっている。疲労。人体の不思議である。先週寝過ぎたのだろうか。Y1000というヤクルト社のだしている自律神経に効くぐっすり眠れる飲み物があるので、コンビニに売っていたら今日買って飲もう。この飲み物の存在を意識しはじめてから、Y1000の列だけ綺麗に無くなってることがほとんどだ。それだけ睡眠に関する悩みを抱えている人が多いということなのだろう。 世間的にもこの飲み物が話題になっているらしい。世間的にというのは何でどこのことなのかはわからないが、とにかく多くの人の関心を集めている飲み物である。 顔を洗った。身体を大きく後ろに反らす。何も聞こえる音はしないが、背中の筋肉の奥の方からミシミシいう音がする気がする。体勢を戻すと肺に溜まった空気が喉を通って勢い良く口から出る。呼吸と声の間のような音がする。頭が少しすっきりする。 最近はつけていなかったりもするが、長年のマスク着用の癖もあってか呼吸が浅くなっている。深呼吸をしよう。良い気持ちや悪い気持ちは身体からもやって来る。 口を開けて下顎を上下左右に動かす。大きなあくびをすると涙で視界が滲む。あくびの涙と悲しくて流す涙が同じ液体なのが不思議だ。不意に涙の存在が気になる。今年は悲しくて泣いたりしていない。二年に一度くらい悲しくて泣いてしまう時がある。これは大人として多い方か少ない方かどちらに入るのだろうか。笑い過ぎて泣くことや、嬉し泣きや悔し泣きというのもある。 笑い過ぎて泣くことは半年に一回はあるな。嬉し泣きはあまり記憶が無い。嬉しいにも関わらず謎のポーカーフェイスをしている時が多い気がする。これは私の微妙なところだ。泣きながら踊り喜びを表現した方が清々しいという気持ちもありながら、そんなに簡単に泣くものでは無いという大人としての呪縛から逃れられないでいる。五歳くらいの子どもの涙の良いところを受け継ぎながら悪いところは理性によって抑えたい。今から毎日兄弟喧嘩をして泣いたりしていたら身が持たないからな。 もう一度伸びをする。書くということは私にとって背筋が丸まることなので、背筋を反らすと気持ちがいい。背中の筋肉が喜んでいるという気がする。筋肉というのは今の状態と逆の動きを常に求めているのだろう。背筋は身体の面積としても大きく重要だという気がする。マッサージに行って爆睡したい。さっ...

アラーム

 9時に起床。8時15分、30分、45分、9時にiPhoneのアラームを設定したが、結局9時に。 この、1時間を15分毎4つに分割してアラームをかける手法をよくやるのだが、ほぼほぼ毎回最後のアラームでちゃんと起きる。まだ後があると油断するのだろう。更にはスヌーズという本当は意味をよく知らない概念があり、寝ぼけてそのボタンをいつも押すので15分毎にアラームが鳴る方則も崩れ、1時間中アラームが鳴りまくっている。アラームの音は変更できるのだが、アラームというより、曲といった方が良いようなものもあり、しかし日常的に聞きたいかといったらそういう感じでもなく、音楽だけどアラームっぽい音楽が内蔵されている。こういう曲を作るプロの人がいてそういう人が作っているのだろう。不思議な仕事である。いや、普段はガチガチに作曲している人にApple社が頼んだのだろうか。どちらにせよ素人の仕事では無いのだろう。これはアラームや着信音っぽい、ぽくないというような会議を社内で行ったり、それらが正常に鳴るかどうか等をテストしたりするのだから、iPhoneを作るというのは並の作業では無い。他のスマホやガラケーにしても同じことなのだが。なぜ、数字を押すと他人と会話ができるのだろう。電話が無い時代に遠くの他人と会話したいという欲望を持った人が沢山いたのは想像に難くないが、それとそれを作り上げてしまうのでは全然違うのである。生まれた時から囲まれていると気づかないが物凄いテクノロジーの時代を暮らしているのである。そして私はそれに乗っかるばかりで成り立ちをよく理解していないのである。Wifiというのが何かもよくわからない。急に、Wifiとは何かと訊かれたら、答えに窮するだろう。あの、あるじゃないですか、電波ですとしか言えないのではないか。これではテクノレベルズ失格である。疑問を感じたら都度勉強していきたい。 今日と明日は絵が描けないのだが、こういう絵を置く時間も大切という気がする。ただ、日記をかくのはどこでもできるし毎日書くと宣言しているので書く。こないだBluetoothのキーボードを買ったのは良かった。ノートパソコンを常に持ち運ぶのは本格的過ぎて気がひけるが、これは持ち運びしやすいので持ち運ぶようにする。乾電池式なので電池が無くなるのが心配だが。やはりキーボードというやつは合理的にできていて、慣れれば...

 暑いので扇風機の強に直で当たっている。暑いと疲れるのだが私はそれに気づかない所があるので気をつけねば。昨日は絵を描いていたのだがあまりうまくいかなかった。しかし、作品のアイディアはようやくでてきた。習作と作品の違いが気になる。何を持ってこの言葉からその言葉に変わるのだろうか。ずっと習作を作り続けていた気も、作品を作り続けていた気もする。それは気持ち次第という所もあれば、何か基準があるという気もする。基準は自分で決めるしかないのだな。私のような意味を求める人々は、調子が悪くなると意味を巡ってただぐるぐる回って落ちていくのでそういうことからは離れなくては。 生物の中で人間だけが意味を巡って揉めるという気もする。その主たる原因は言葉であるので、理屈っぽくなるのには注意が必要だ。とはいっても簡単なことである。いや、それは芸術ではないなど人に突っかからないことと、突っ込まれても言い返したりせず、私の中ではそうなのだ。うひひという図太さを心の中に持つことの二つが出来れば後は割と自由である。 ロマンチックな理屈を考えたり知ったりしたいと思っている。今日はあまり日記に熱が入らない。こういう時に別の行動に移れるのは良いなと感じる。国語が終わったら図工である。絵を描く。

絵を描く前の日記

  朝の5時起床。良い感じだ。朝食をとりたいがスーパーが空いていないのでコンビニでミックスサラダとカニカマスティック、じっくりコトコト濃厚コーンポタージュを買った。バーモントカレーが家にある。ミックスサラダに切ったカニカマをのせてドレッシングをかけたものと炊いたつや姫という山形のお米に湯煎したバーモントカレーをかけたカレーライス、じっくりコトコト濃厚コーンポタージュの三つを食べようと思っている。じっくりコトコト濃厚コーンポタージュは初めて食べる気がする。子どもの頃、この商品のシリーズがテレビCMで流れていたのを見て、じっくりコトコトという語感に、旨そうと思ったのを覚えている。遂にその味を知ることになるわけだ。期待。じっくりコトコト手間ひまかけてと裏面に商品説明が書いてあるわりに、約一分でできあがりというスピーディーと手間ひまの両立を遂げた画期的な商品である。 アンディ・ウォーホルの日記を読んだことを不意に思い出す。コーラを買った。一ドル。とか、そういうことがひたすら書いてある日記で、上巻と下巻があり、アーティストの日記というエモくなりがちなジャンルにして、ドライ過ぎて笑ってしまったことを覚えている。 米を炊いている。あと三十三分だ。こういう、何かをしている間に別の何かをする時に、子どもの頃に好きだったゲームキューブのゲーム、ピクミンを思い出す。オリマーという謎の宇宙服を着た少年だかおじさんだかわからない小さなキャラクターを操作し、ピクミンというこれまた謎の、何の理由があるのかわからないがオリマーを慕う触覚の生えたオリマーよりも小さい生き物をオリマーが投げたり物を運ばせたりしてゲームを進めていくのだが、そのゲームに必要なのがピクミン三十匹が物を運んでいる間に、他のピクミン二十匹が橋を開設するというような二つや三つのことを同時並行で行う技術であった。 今の現実で例えるなら、炊飯器というピクミンが米を炊いている間に私というピクミンがこの日記を書いているということになる。 米を研ぐ時に、爪を立てず手のひらで優しく研いだ方が良いということを聞いた。こういう知恵をもっと知り、生活に対する解像度を上げていく。 これからまたなるべく自炊をするようにする。外食はお店の人に作っていただいたものをいただくので、完成形が提供されるのだが、自炊の場合は未完成状態から完成させていく作業...

Not found

  去年まで日記を書いていた時より文章が理屈っぽくなっていて面白い。何だか人ごとなのは実際人ごとのような感じもあるからだ。いや、自分のことなのだが。一人の人の一日に色んな時間があって、大きくわけると起きている時と寝ている時の二つなのだが、その内の起きている時間をどうするかということしか私はできないので、どうするか。前々回に書いた夢見人は寝ている間も活動していて、寝ている間もパーティーに出かけたりしていることを考えると、私にとって睡眠というのは意識の死みたいなものであり、起床することで意識が復活する夢見無人は起きている時間を充実させなくては。 たまにアルコールを浴びるように飲んでしまうのは、現実の中で夢のような時間を擬似体験する為なのかもしれない。むむ、それは考えたことが無かった。こういうことがあるから日記を書くことは面白い。 今日はドイツが東と西にわかれていた時代の東ドイツの若者のファッションについて書きたいと思っていたのだが、問題が発生した。Google検索をすれば直ぐに私の求めている情報が見つかり、それに興奮した私に書かせようと思っていたのだが、何も見つからないのである。 何が見つからないのかを書かねばなるまい。私は、何かの本でベルリンの壁崩壊以前の東ドイツは社会主義陣営であり、食物や衣服は支給品であったが、この衣服が支給品であることに納得いかない、つまりお洒落したい若者はゴミ袋にマジックで何か書いてそれを支給品の洋服に縫い付けて自己表現していたということなのだが、そういう人は見当たらない。まさか夢? 仮に夢だったとしても私はそういう人たちがいたと信じている。どなたかその情報を知りませんか。求めてます。 もう一つ知りたいことがある。これは確実に夢では無く実在する人物なのだが、アメリカの男性の現代アーティストの人。CIAにあらぬ嫌疑をかけられ、行動範囲や交友関係を探られる。彼は一日の終わりに今日何をしていたのか写真つきでメールで報告しなければならないことになる。最初はしぶしぶ従っていたが、だんだんと理不尽さに納得がいかなくなった彼は、メールをしなくなるのではなく、日に何度も写真つきのメールを送ったのである。一日に一通メールが来ていた時にはわかりかけていた彼の素性は、沢山メールが来るようになると、むしろCIAの人たちも彼の素性はわからなくなってしまったのであ...

技術に対する反逆者たち

昨日の夜中に同郷の親友から目的の無い電話があり、一時間近く話し込み、良い時間を過ごした。世にも奇妙な 三十歳。高校生のカップルか。 この日記を書くことも仕事にしたいと思っている。しかし、仕事というのは一体なんだろう。おそらく誰もが一度は考えたことがあるだろう。例外無く私も考えている。考え続けている。もう、考えすぎなのかもしれない。というのも、それが良いとか悪いとかではなく役所で働く人の仕事観というのは、まぁ、仕事ですからねという人によって違いはあるだろうがなんとなくこのぐらいの幅に収まるというのがあるようで、それは公務員の共通認識として存在しているようだ。勿論一部例外もあるだろうがその環境の場合、自分の仕事観を設定しやすい。 しかし、私のような私務員たちの場合は仕事観が文字通り人それぞれであり、誰かにとってしっくりくるものが人によっては全く馴染まなかったりする。共通認識を探してそこに合わせるという方法よりも個々人が独自の仕事観を設定するという方法が合っていると思う。 この方法は自由度は高いが自分で設定しなければいけないので、これが中々どうして難しい。 正直、お金は発生していないけど仕事ですと言えばそれもそうなのであり、お金を貰っているけど趣味ですと言えばそれもそうなのだろう。家事をすることだって仕事だとも思うし、生きていること自体が仕事のようにも、単なる暇つぶしのようにも思う。 抽象度を下げて、具体的に考える。 私にとって仕事というのはありきたりだが、何かの行為をしてその対価としてお金をいただくという状況があった時の、その行為のことを仕事と考えているだろうか? 何を、そして誰に質問しているのだという感じだが、とりあえず今の所そういう風に思っている。思おうとしているのかもしれない。 この日記を書くということは行為である。仕事にするにはお金をいただかなければならないということになるのだが、どうするか。そうだ。投げ銭制にしよう。以下に私の銀行口座の振込先を書いておきます。 横浜銀行 湘南シークロス支店 普通預金 店番617 口座番号1098468 モリヤリクオ あと、エッセイを書いて欲しい等あったらインスタグラムのDMからご連絡ください。 よし。仕事っぽくなってきたぞ。 前置きが長くなってしまった。昨日の続きを書く。iTunesでiPhoneで何を聴くのか。私は外出する際...

夢とか音楽のこと

  12時間も寝てしまった。気圧のせいにする。  そもそも私はロングスリーパーなのだろう。寝不足の終電で終点で起こされたり、山手線大回転を何回やったことだろう。 12時間は寝過ぎだが、毎日しっかり寝るようにする。 しかし、寝ているだけでは発明しないアインシュタイン。この日記を含めた創作を生きて起きている間は続けていく。 私は、寝て見る夢というのをほとんど見ない。それこそ1年に1回あるか無いかぐらいなのだが、人によっては毎日のように見ていて、それも中々面白そうな夢だったりすることに気づいたのは小学生の時だった。 私にとって睡眠というのは、時間を失うのと引き換えに体力を回復するという交換行為なのだが、夢を見る人にとっては、空を飛んだりお姫様になったり妖精達と徹夜でパーティーをしたりしながらもちゃっかり体力も回復するという、それこそ夢のような行為が日常的に夢を見る人、夢見人の睡眠なのであった。そういう人がいるということに気づいた私は衝撃を受け、憧れを抱いた。そして、憧れたことをそのままやろうとするのが子どもの性である。ギターを買って、Smells like teen spiritを練習するように。 夢見人の友人に、どうしたらそんなに面白そうな夢が見れるのかを尋ねその手法を参考にしようと思ったが能力者にとっては特にコツは無いらしく、ただ寝れば自動的に映画のような物語が始まるらしいのである。そして映画鑑賞と違うのは自分も登場人物になるということだろう。しかも映画の制作者やスタッフ、出演する役者とも違い、台本も無く、わけのわからないまま信じられない展開が起きていくという、最先端の映像技術すら凌駕することを、睡眠という全人類が、ひいては全動物が行うであろう原始的な行為がやっているということ。こんなことが普通のこととされているのが不思議なくらいである。 残念ながら夢見人で無い私は、努力してその境地に達そうと、枕元にこういう夢が見たいと書いて寝たり、空を飛ぶ 空を飛ぶ 空を飛ぶ と念じながら寝たりしてみたが、空を飛ぶことは無かった。悪夢は見たのだが。 後から知ったことによると、夢を見ない人というのは覚えていないだけで実際は毎日見ているのだという。しかし、事実はそうでも見ない人の体感からすれば、見ていないから見ていないのである。あまりこの理屈でいくと地球が平らになりかねないので...

創作記

今日からまた日記をはじめます。この日記の世界では、以後タメ口になってしまうことをご容赦ください。 といっても、誰にでも合わせることはできないのだ。こういう不特定多数が見るものの難しさでもあるが、僕の好きなことでもある。個展をするなり、何かのステージにでるなり、こういうプライベートとパブリックの間にある日記を書くことも、内容の違いはあれど不特定多数に向けているというのは変わらない。いや、不特定少数と書いた方が正確だろうか。とにかく、不特定。ボーダレス、ジャンルレス、エイジレス、オールオーバー。 また日記を書き始めるにあたってきっかけになったのは、良い助言をくれる知人がまた書いてみたらと言ってくれたことが一つと、日記を書いていた時の方が絵を描くことに対して熱量があったということ。もう一つある。単純に書きたい。 「また日記を〜」と書いても日記時代を知らない人から見ればわからないことなので補足すると、僕は2014年に自分のwebサイト、moriyarikuo.comを作り、自分の絵と日記を公開していた。いわゆる絵を描く人であれば日記はそこそこに、絵をどんどん更新していくのが本道な気がするが、邪道な私は毎日毎日日記を更新し始め、そのうちクライアント無きライターと化した私は、絵はあんまり面白くないけれど日記は面白いと言われたりするようにもなった。そしてその逆もあった。 そもそもWebサイトに日記をつけた理由は、ステッカーを作ったとか、展示があるとか、そういうことを宣伝する為であった。2014年の時点では、「お知らせ」みたいな題をつけていたのが、2016年にもなると題は全て「2016年1月1日」といったような年月日になり、ステッカーを作ったので欲しい方は連絡ください!よろしくお願いしますと書いていた若者は、朝の5時に酒を飲んでしまった。自分はもうダメだとweb上で嘆く惨めな、これまた若者になってしまった。何をやっているのだ。 そのような失敗も踏まえ、この創作記は、今猛烈に落ち込んでいるとかそういうことは書かず、研究日誌であり、宣伝文であり、備忘録であり、誰かが見て面白いと思ってくれたらそれもあり、自己満足でもあり、そういう文章を書いていく。 それは自分のwebサイトでやれば良いのでは、あれ、moriyarikuo.comはどうなったのだという疑問が浮かぶが、2021年のサーバー更...