スキップしてメイン コンテンツに移動

Something is never change

熟睡そして起床。まだ眠れそうだが、そうするとそのまま一日がグダグダになるので顔を洗う。

お米を炊いて納豆卵かけご飯と肉野菜炒めと味噌汁を朝食にしよう。冷蔵庫を開けると豚肉と野菜炒め用のミックス野菜の賞味期限が切れていたので捨てた。こういう時、野菜はともかくとして豚肉は少し申し訳ない気持ちになる。ごめんなさい。

購入日から一週間くらいは賞味期限がある食材をなるべく買うようにしようと思った。二日間、寝る時以外はほぼ家にいないみたいな時にこういうことが起こる。今日捨ててしまった豚バラ肉やミックス野菜は足が速いのでなるべく避けよう。

新しくスーパーで何か買って自炊しようと思ったが、天丼が食べたいと思ったので結局てんやに行った。てんやまでは歩いて結構時間がかかるのだが、散歩がてら音楽を聴きながら。暑いとファンキーなのが似合う。洋服もそうなのかもしれない。家にある服を適当に選んで着て外へ出る私も無意識に黒っぽい洋服を避けがちになっていることに気づく。
てんやに向かうまでの道中、スポーツ用品店の前を通った。懐かしいが何の曲だか思い出せない音楽がかかっている。夏に調子良い前のめりでアップテンポな曲だ。Aメロ Bメロ サビから成り立つ曲は言葉は違えど世界中で人気がある。 Shazamというアプリで曲名を調べる。The Offspringだ。All I wantという曲。ポップなパンクバンドというようなイメージだったが歌詞を調べると結構尖っている。お前のルールなんて知るか。
その人にとって歌詞のわからない音楽はメッセージソングの歌も意味の伴わない音の一種として聴こえてしまうので、そのことは昔から色々思うところがあるのだが、良いところもあると思う。

とりあえず暑い。滝のような汗。オフスプリング。サマー。てんやに行かなくちゃ。私と似たような感じでふらふらした人影が見えたので見るとおじいさんが戦士の剣と盾のように缶チューハイを右手に、プラカップを左手に持っていてとても幸せそうでなんか良かった。胸ポケットに入った機械から昔の歌謡曲が小さい音で流れていた。
あらゆる街に外で一杯ひっかけ、イヤホンをつけず音楽を流しているおじいさんがいるのだが、全員昔の日本の歌謡曲か演歌、それかラジオを聴いている。ヘヴィーメタルおじいさんとかはいないのだろうか。このことが気になる。

昨日の夜、駅から自宅までの帰り道、音楽を聴いて泣いてしまった。昨日は涙について考えたが、泣いてしまう頻度を過小に考えていたことに気づく。この、音楽を聴いて泣いてしまうというのは二ヶ月に一回くらいある。これは喜怒哀楽の四つのどれとも言い難いもので、シンプルに超感動するということはとっても複雑だ。そして大抵泣いてしまうのは疲れている時だ。この、疲れているということには感情増幅機能があると思う。良い方にも悪い方にも極端に行くので、疲れている時は素敵なものに触れたり、良いことを考えた方が良いなと感じる。そうしよう。

昨日泣いてしまったのはBruce Hornsby & The RangeのThe way it isという曲で、2PacのChangesという曲の基になっていて、色んな人たちがサンプリングしている曲で、メジャーな曲らしいのだが恥ずかしながら私はこの原曲を聴いたことがなかった。
そして、社会的事実としての原曲と個人的な思い出としての原曲は、違うとも。

私は高校生の時に2PacのChangesを聴き、良い曲だなと思い、それから定期的に聴いていたのだが、昨日の私は三十歳、ここにきてはじめて原曲を2Pacの続きとして聴いたのだ。2PacのChangesのトラックはBruce Hornsbyの弾くピアノのフレーズの二つに打ち込みのドラムやコーラスをのせて作られているのだと思うが、原曲の方には勿論それ以外のフレーズや展開がある。私が泣いてしまったのはChangesには無いピアノソロが始まった瞬間である。このピアノソロを知らなかったのは人生を損していたような気がした。こういう瞬間の為に生きているのだとすら思った。今も聴いているのだが、良い曲だ。しかし昨日の夜と全く同じ気持ちにはなれず泣いたりしてしまわないところが私の感動の身勝手なところなのだが。

ピアノソロというのは何なのだろう。というか、楽器のソロというのは何なのだ。ソロとはいっても基本的には他の楽器も演奏しているのであり、何を持ってソロと呼ぶのか、他の演奏とずれはじめた瞬間のことだろうか。今までの曲の流れから想像できなかった音が鳴り始めてそれが一定の時間続くことだろうか。しかし、それは昨日の私のように初めて聴く曲の場合である。展開を知った今日の私が聴いてもなおピアノソロとして聴こえるのである。それにしても音楽は不思議だ。。

今気づいたのだが、日記が音楽ブログみたいになってしまっている。絵日誌みたいにしようと思っていたのだが。しかし私が気づいたのが、絵を描くことが絵の絵を描くわけでもなく、文章を書くことが文章についての文章だけを書くわけではない以上、様々な事象に目を向けることが創作において重要だということだ。もっと色んなことに目を向けたい。明るい目で目を向けたい。世界を広げたい。

コメント

このブログの人気の投稿

2024年3月7日

3月最初の日記。期間が空いてしまった。今日は目覚めるとひどい2日酔いだった。近所のスーパーで経口補水液と野菜ジュース、バナナを買って、イートインコーナーで飲み食いした。1日初めの飲み物1口目。ぷはぁと声がでる。あまり気にしていないが、座る時にどっこらせと言うお爺さんになる要素が私にはある。そのまま色んな食材買って自炊。2日酔いというのは、普段思わないことを思うようにできているのか、あぁ、なんでも、丁寧に袋やパッケージに入れられて売られている。もやしの袋然り、納豆は3個入りセットで丁寧に梱包されていて、キチっと積み上げられている。どの梱包も寸分違わず、目に見える違う部分としたら賞味期限の印刷くらい。奥の方に手を伸ばし1番賞味期限が遠い納豆を買った。アンディ・ウォーホルのキャンベルスープ缶の作品を思い出す。あの、本気だけど皮肉でもあるような良くわからないあり方は結構好きだ。なんとなく、ロックの時代の作品という感じがする。華々しさと自分自身や自分が生きている文明に対する自虐が同居している。だからか、ロック音楽のアルバムというものは1曲目で車の自慢をしたかと思えば、2曲目ではダメ人間のバラードになったりしていて、そういう表現の為ピエロ役を買ってでるような所も結構好きだった。まぁ、そうでない人が沢山いるのもわかるけれど、根本的に自分を下げて矛盾を楽しむユーモアがあって、そういう所に今また惹かれはじめている。甲本ヒロトの良さとラップスターの良さは結構違う気がする。と、詳しくないが今のアメリカのラッパーであまり伝統的な感じがしない人、例えばLil uzi vertの曲を聴いたりすると、も、もしかしてふざけているのでしょうかとも感じるので、文化が受け入れられ成熟してくるとちょっとおちゃらける感じの人が求められてくるのかもしれない。 暫く書いてないと指筆がはかどらない。やはりなるべく毎日書くべきだな。無料でできるのだし、何か発見をするのも文章を書いている時が多い。 唐突なコラージュみたいな文章だ。「自分にとって」絵を描くのは、やっぱり何かの為って所がもっとあった方が良いんじゃないかと思っている。今まで、絵を描くことには理由がいる→絵を描くことには理由はいらない という思考の経緯を辿っていたのだが、ここにきて違う形で当初の意識にまた戻った。違う形とは何かを考えるのなら、元々どういう形で...

つづき

apple IDがわからなくなったりして前のiPhoneの引き継ぎが何もできていない。ほぼアナログの生活は気づくことが沢山あった。まとまった量の文章を読むのは紙の本の方が読みやすいということや、普段iPhoneをいじっていた時間が暇になるので頭の中でギャグを考えたりした。気分が晴れない時に考えるギャグは結構面白い。淡々と自分に対しての冷めた視点がでてくる。逆に気分が良い時はギャグを欲していない気もする。四六時中笑っている人が求めるのは意外に禅的なものだったりするのだろうか。 音楽の聴けない散歩はつまらなそうに感じたがやってみると捗った。音楽がある時は意識が音に向かうのだが、ないと行き先の無くなった意識が目の前の景色や自身の考えに向かっていった。考えは徐々に形を変えて増幅し空想になり、膨らみきるとそこに溺れ景色にはとんと興味がなくなってしまう。方向音痴なのはこのあたりにも原因がありそうだ。夕焼けで空の色が変わったり、不思議な形の雲がでてきたりしなければ歩いている中で色や形に興味を持つことはなく、自分の考え(考えというのも言葉だ)や街中の看板、地名、言葉が頭に入ってくる。この名前はなんなのか、意味の中を自分の身体が歩いた。絵を描くには満たない脳を持ち絵を描くにはどうしたら良いだろうか。 印象に残った夕焼けの色や建物の形を覚えているだろうか。私は覚えていない。覚えているといえばほとんど、印象に残ったということだけだ。だから写真を撮ったりするのだろうか。目に焼き付けるということができず、一日経って頭の中で現像してみても抽象としてのイメージしかでてこない。そんな風に、私の視覚はひたすらに一時的な映像の連続として続いてきた。誰しもそんなものなのではないかと思うのは間違いで、人によっては一度通った道はもう忘れず、住んでいる建物の窓の数まで覚えていたりする。建築的視覚とでも言うべきだろうか。それに比べると私の視覚というのは貧弱である。人間の目というものがその人にとって二つまでしか持てない以上、他の目に何が見えているのかというのは永遠にわからない。 思うに、日本の都市型の視覚というのは混乱であるが、雪景色や砂漠にある視覚というのは調和された視覚である。生活の必要から環境に応じて視覚も変化していき、雪景色の中にいる人には私には見えない白が見え、砂漠にいる人には私には見えない砂の色が見え...

ゆうーつ

 フライヤーができた。できる前の生活を反省する。ぐだぐだぐだぐだぐ… 一体何をやっているのだ。散歩したり頭を掻きむしったりする前にもう少し思ったことに集中したらどうだ。もう少しストイックでいて良いのじゃないかと思った。しかし、ここで気合いと根性といったような出来もしない体育会系を自分に対して向けるのはまずくいくだろう。工夫だ。工夫。 例えば、何かのアレルギーがある人は工夫の大切さを知るはずなのである。これを食べるとこうなるからとか、金属アレルギーだけどアクセサリーをつけたいから、こういう素材のものを、というのがあるはずなのだ。 そういう人に比べると私はただその場の思いつきに任せ過ぎなのだ。生活、流れていく時間、感情や欲という闘牛士がひらひらさせる赤い布に突撃する私は牛。紙に書いた自分との約束なんかしれっと破り、何時に寝て何時に起きるか、そういうことも自分でわからなかったのだ。 まぁ、あまり自分を責めるのは止めよう。ただ、中々できなくとも、変わろうという意思を持ち続けることは忘れずに。一気に変えようとしてもリバウンドがくるし、潔く自分のことを諦めるのもやっぱり違う。大事なことはいさぎわるく。 果たして、この自己満足という四字熟語がばっちり似合うこの日記はどこへ向かうのか。今日はぐだぐだしていた時間にこのことについて考えた。ひとまず、日記のことは置いといて、自己満足というやや嫌われがちな言葉について考えてみた。中学生くらいの頃、山田かまちの詩で、自己満足、、という言葉ではなかった。自己中心についてしっかり考えないと、他人中心になってしまう、、という言葉だったか失念してしまったのだが、とにかくそういうことを書いている詩があった。他の詩にも、自己中心という言葉がでてきた。そうした、悪い意味とされる言葉を一度自分の中で噛み砕き、それが結果悪かったとしても、、そういう試みが気になる。あるかどうかもわからない未来よりも輝かしい過去の方が良いというのはリリー・フランキーさんの言。 私は、自己満足が他人の満足につながるようなことが良いと思っている。その為にも絵を描いていきたい。自己満足と公共のマリアージュというのが今日頭の中に浮かんだ言葉であった。その時、ドリームシアターのENEMY INSIDEを聴いていた。間奏のプログレな展開、カオスに盛り上がる部分は部活を辞めて暇で暇で...