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創作記

今日からまた日記をはじめます。この日記の世界では、以後タメ口になってしまうことをご容赦ください。
といっても、誰にでも合わせることはできないのだ。こういう不特定多数が見るものの難しさでもあるが、僕の好きなことでもある。個展をするなり、何かのステージにでるなり、こういうプライベートとパブリックの間にある日記を書くことも、内容の違いはあれど不特定多数に向けているというのは変わらない。いや、不特定少数と書いた方が正確だろうか。とにかく、不特定。ボーダレス、ジャンルレス、エイジレス、オールオーバー。

また日記を書き始めるにあたってきっかけになったのは、良い助言をくれる知人がまた書いてみたらと言ってくれたことが一つと、日記を書いていた時の方が絵を描くことに対して熱量があったということ。もう一つある。単純に書きたい。

「また日記を〜」と書いても日記時代を知らない人から見ればわからないことなので補足すると、僕は2014年に自分のwebサイト、moriyarikuo.comを作り、自分の絵と日記を公開していた。いわゆる絵を描く人であれば日記はそこそこに、絵をどんどん更新していくのが本道な気がするが、邪道な私は毎日毎日日記を更新し始め、そのうちクライアント無きライターと化した私は、絵はあんまり面白くないけれど日記は面白いと言われたりするようにもなった。そしてその逆もあった。

そもそもWebサイトに日記をつけた理由は、ステッカーを作ったとか、展示があるとか、そういうことを宣伝する為であった。2014年の時点では、「お知らせ」みたいな題をつけていたのが、2016年にもなると題は全て「2016年1月1日」といったような年月日になり、ステッカーを作ったので欲しい方は連絡ください!よろしくお願いしますと書いていた若者は、朝の5時に酒を飲んでしまった。自分はもうダメだとweb上で嘆く惨めな、これまた若者になってしまった。何をやっているのだ。
そのような失敗も踏まえ、この創作記は、今猛烈に落ち込んでいるとかそういうことは書かず、研究日誌であり、宣伝文であり、備忘録であり、誰かが見て面白いと思ってくれたらそれもあり、自己満足でもあり、そういう文章を書いていく。

それは自分のwebサイトでやれば良いのでは、あれ、moriyarikuo.comはどうなったのだという疑問が浮かぶが、2021年のサーバー更新の時期にサーバー代を払うのを忘れたのだ。いや、厳密には薄々気づいていた。というか連絡も来ていた。しかし、それを払うと家賃が払えないという状況があり、なんとなく生きていたらwebサイトが無くなってしまった。まぁ当たり前である。今moriyarikuo.comはどうなっているのだろう。まるで引っ越した後に取り壊されたアパート。思い出は沢山あるが、これからこの創作記で作っていく。前よりもっと、うまくやる。あともちろん絵も描く。掃除をして、家事をする。好きな服を着てでかける。

コメント

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2024年3月7日

3月最初の日記。期間が空いてしまった。今日は目覚めるとひどい2日酔いだった。近所のスーパーで経口補水液と野菜ジュース、バナナを買って、イートインコーナーで飲み食いした。1日初めの飲み物1口目。ぷはぁと声がでる。あまり気にしていないが、座る時にどっこらせと言うお爺さんになる要素が私にはある。そのまま色んな食材買って自炊。2日酔いというのは、普段思わないことを思うようにできているのか、あぁ、なんでも、丁寧に袋やパッケージに入れられて売られている。もやしの袋然り、納豆は3個入りセットで丁寧に梱包されていて、キチっと積み上げられている。どの梱包も寸分違わず、目に見える違う部分としたら賞味期限の印刷くらい。奥の方に手を伸ばし1番賞味期限が遠い納豆を買った。アンディ・ウォーホルのキャンベルスープ缶の作品を思い出す。あの、本気だけど皮肉でもあるような良くわからないあり方は結構好きだ。なんとなく、ロックの時代の作品という感じがする。華々しさと自分自身や自分が生きている文明に対する自虐が同居している。だからか、ロック音楽のアルバムというものは1曲目で車の自慢をしたかと思えば、2曲目ではダメ人間のバラードになったりしていて、そういう表現の為ピエロ役を買ってでるような所も結構好きだった。まぁ、そうでない人が沢山いるのもわかるけれど、根本的に自分を下げて矛盾を楽しむユーモアがあって、そういう所に今また惹かれはじめている。甲本ヒロトの良さとラップスターの良さは結構違う気がする。と、詳しくないが今のアメリカのラッパーであまり伝統的な感じがしない人、例えばLil uzi vertの曲を聴いたりすると、も、もしかしてふざけているのでしょうかとも感じるので、文化が受け入れられ成熟してくるとちょっとおちゃらける感じの人が求められてくるのかもしれない。 暫く書いてないと指筆がはかどらない。やはりなるべく毎日書くべきだな。無料でできるのだし、何か発見をするのも文章を書いている時が多い。 唐突なコラージュみたいな文章だ。「自分にとって」絵を描くのは、やっぱり何かの為って所がもっとあった方が良いんじゃないかと思っている。今まで、絵を描くことには理由がいる→絵を描くことには理由はいらない という思考の経緯を辿っていたのだが、ここにきて違う形で当初の意識にまた戻った。違う形とは何かを考えるのなら、元々どういう形で...

つづき

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