スキップしてメイン コンテンツに移動

夢とか音楽のこと

 12時間も寝てしまった。気圧のせいにする。 

そもそも私はロングスリーパーなのだろう。寝不足の終電で終点で起こされたり、山手線大回転を何回やったことだろう。
12時間は寝過ぎだが、毎日しっかり寝るようにする。
しかし、寝ているだけでは発明しないアインシュタイン。この日記を含めた創作を生きて起きている間は続けていく。

私は、寝て見る夢というのをほとんど見ない。それこそ1年に1回あるか無いかぐらいなのだが、人によっては毎日のように見ていて、それも中々面白そうな夢だったりすることに気づいたのは小学生の時だった。
私にとって睡眠というのは、時間を失うのと引き換えに体力を回復するという交換行為なのだが、夢を見る人にとっては、空を飛んだりお姫様になったり妖精達と徹夜でパーティーをしたりしながらもちゃっかり体力も回復するという、それこそ夢のような行為が日常的に夢を見る人、夢見人の睡眠なのであった。そういう人がいるということに気づいた私は衝撃を受け、憧れを抱いた。そして、憧れたことをそのままやろうとするのが子どもの性である。ギターを買って、Smells like teen spiritを練習するように。

夢見人の友人に、どうしたらそんなに面白そうな夢が見れるのかを尋ねその手法を参考にしようと思ったが能力者にとっては特にコツは無いらしく、ただ寝れば自動的に映画のような物語が始まるらしいのである。そして映画鑑賞と違うのは自分も登場人物になるということだろう。しかも映画の制作者やスタッフ、出演する役者とも違い、台本も無く、わけのわからないまま信じられない展開が起きていくという、最先端の映像技術すら凌駕することを、睡眠という全人類が、ひいては全動物が行うであろう原始的な行為がやっているということ。こんなことが普通のこととされているのが不思議なくらいである。

残念ながら夢見人で無い私は、努力してその境地に達そうと、枕元にこういう夢が見たいと書いて寝たり、空を飛ぶ 空を飛ぶ 空を飛ぶ と念じながら寝たりしてみたが、空を飛ぶことは無かった。悪夢は見たのだが。
後から知ったことによると、夢を見ない人というのは覚えていないだけで実際は毎日見ているのだという。しかし、事実はそうでも見ない人の体感からすれば、見ていないから見ていないのである。あまりこの理屈でいくと地球が平らになりかねないので注意が必要だが。
そんな、空飛ぶ夢を見たかった日から20年以上が経った。
今日も目を覚ますと頭の中は空っぽ。目の前には部屋の壁と現実。

布団からでて、音楽を聴いた。毎日音楽を聴いている。音楽は形が無く、耳を通り芸術や栄養剤や色んな感情に変形する。
音楽を聴くというのはなんだろう。スーパーに行き、パスタにするかうどんにするか悩みながらふらふらしている間も音楽が流れている。繁華街に行けば街のスピーカーから音楽が流れたりもしている。ただ、それは聴いたというより、聴こえてきたという感じだ。
私が音楽を聴いたと感じるのは、音楽に重点を置いた場所で音楽を聴くのと、自主的に何かを選曲して聴くという2つになる。

前者は人を介して音楽を聴くことになる。聴かせてもらうという。DJの選曲を聴いたり、ライブを見る。
後者は自分が選んだ曲を聴くことになる。自分でレコードを選び、ターンテーブルに置き、再生ボタンを押し、スピーカーから音楽が流れる。白ワインを飲む。やっぱりシャルドネだ。明日起きたらあの絵を完成させよう。これは超大作だ。すごいことになる。色々あったけれど今だからこそ思う。私の選択は間違ってなかったってね。良い音だな。スピーカーは重要だ。若いころはピンとこなかったけど、やっぱりすごいよ、ジョンコルトレーン。サックスも練習してみようか。
というのが理想の未来の暮らしだが、今の私はiPhoneでiTunesを開き、イヤホンを耳にはめ、通勤や散歩、てくてく歩きながら聴き、電車の中、座りながら、立ちながら、本を読みながら。
絵を描きながらも聴く。筆が止まる時、音楽が後押ししてくれたりもする。筆を止める時もあるのだが。書きながら思ったのだが、ながらが多いな。現代人の特徴だ。たまには正座して聴いたりした方が良いのかもしれない。

誰にとってもそうなのだろうが、置かれている状況によって音楽の好みが変わってくる。一定の幅がある人もいるし、思い切り変わる人もいる。ある土地で発祥した、もしくは栄えた音楽というのは、その土地の音響の環境に依存しているというのを聞いたことがあるのだが、本当にそうだと思う。なんでもそうだ。ハワイでカナダグースが人気になるとは思わないし。
そう考えると、自分の音響環境というのは、iTunesでiPhoneとイヤホンというApple依存症なやや貧弱な装備(Appleの社員の方が見ていたら申し訳ないです、あと、スティーブジョブス!好きだよ!)であるのでこの環境でどういう音楽を聴きたいのかということを考える。

長くなってしまったので続きは明日書こう。この日記としっかりつながるかどうかわからないけど、明日はテクノについて書きたい。

Stay hungry stay foolish

コメント

このブログの人気の投稿

2024年3月7日

3月最初の日記。期間が空いてしまった。今日は目覚めるとひどい2日酔いだった。近所のスーパーで経口補水液と野菜ジュース、バナナを買って、イートインコーナーで飲み食いした。1日初めの飲み物1口目。ぷはぁと声がでる。あまり気にしていないが、座る時にどっこらせと言うお爺さんになる要素が私にはある。そのまま色んな食材買って自炊。2日酔いというのは、普段思わないことを思うようにできているのか、あぁ、なんでも、丁寧に袋やパッケージに入れられて売られている。もやしの袋然り、納豆は3個入りセットで丁寧に梱包されていて、キチっと積み上げられている。どの梱包も寸分違わず、目に見える違う部分としたら賞味期限の印刷くらい。奥の方に手を伸ばし1番賞味期限が遠い納豆を買った。アンディ・ウォーホルのキャンベルスープ缶の作品を思い出す。あの、本気だけど皮肉でもあるような良くわからないあり方は結構好きだ。なんとなく、ロックの時代の作品という感じがする。華々しさと自分自身や自分が生きている文明に対する自虐が同居している。だからか、ロック音楽のアルバムというものは1曲目で車の自慢をしたかと思えば、2曲目ではダメ人間のバラードになったりしていて、そういう表現の為ピエロ役を買ってでるような所も結構好きだった。まぁ、そうでない人が沢山いるのもわかるけれど、根本的に自分を下げて矛盾を楽しむユーモアがあって、そういう所に今また惹かれはじめている。甲本ヒロトの良さとラップスターの良さは結構違う気がする。と、詳しくないが今のアメリカのラッパーであまり伝統的な感じがしない人、例えばLil uzi vertの曲を聴いたりすると、も、もしかしてふざけているのでしょうかとも感じるので、文化が受け入れられ成熟してくるとちょっとおちゃらける感じの人が求められてくるのかもしれない。 暫く書いてないと指筆がはかどらない。やはりなるべく毎日書くべきだな。無料でできるのだし、何か発見をするのも文章を書いている時が多い。 唐突なコラージュみたいな文章だ。「自分にとって」絵を描くのは、やっぱり何かの為って所がもっとあった方が良いんじゃないかと思っている。今まで、絵を描くことには理由がいる→絵を描くことには理由はいらない という思考の経緯を辿っていたのだが、ここにきて違う形で当初の意識にまた戻った。違う形とは何かを考えるのなら、元々どういう形で...

つづき

apple IDがわからなくなったりして前のiPhoneの引き継ぎが何もできていない。ほぼアナログの生活は気づくことが沢山あった。まとまった量の文章を読むのは紙の本の方が読みやすいということや、普段iPhoneをいじっていた時間が暇になるので頭の中でギャグを考えたりした。気分が晴れない時に考えるギャグは結構面白い。淡々と自分に対しての冷めた視点がでてくる。逆に気分が良い時はギャグを欲していない気もする。四六時中笑っている人が求めるのは意外に禅的なものだったりするのだろうか。 音楽の聴けない散歩はつまらなそうに感じたがやってみると捗った。音楽がある時は意識が音に向かうのだが、ないと行き先の無くなった意識が目の前の景色や自身の考えに向かっていった。考えは徐々に形を変えて増幅し空想になり、膨らみきるとそこに溺れ景色にはとんと興味がなくなってしまう。方向音痴なのはこのあたりにも原因がありそうだ。夕焼けで空の色が変わったり、不思議な形の雲がでてきたりしなければ歩いている中で色や形に興味を持つことはなく、自分の考え(考えというのも言葉だ)や街中の看板、地名、言葉が頭に入ってくる。この名前はなんなのか、意味の中を自分の身体が歩いた。絵を描くには満たない脳を持ち絵を描くにはどうしたら良いだろうか。 印象に残った夕焼けの色や建物の形を覚えているだろうか。私は覚えていない。覚えているといえばほとんど、印象に残ったということだけだ。だから写真を撮ったりするのだろうか。目に焼き付けるということができず、一日経って頭の中で現像してみても抽象としてのイメージしかでてこない。そんな風に、私の視覚はひたすらに一時的な映像の連続として続いてきた。誰しもそんなものなのではないかと思うのは間違いで、人によっては一度通った道はもう忘れず、住んでいる建物の窓の数まで覚えていたりする。建築的視覚とでも言うべきだろうか。それに比べると私の視覚というのは貧弱である。人間の目というものがその人にとって二つまでしか持てない以上、他の目に何が見えているのかというのは永遠にわからない。 思うに、日本の都市型の視覚というのは混乱であるが、雪景色や砂漠にある視覚というのは調和された視覚である。生活の必要から環境に応じて視覚も変化していき、雪景色の中にいる人には私には見えない白が見え、砂漠にいる人には私には見えない砂の色が見え...

ゆうーつ

 フライヤーができた。できる前の生活を反省する。ぐだぐだぐだぐだぐ… 一体何をやっているのだ。散歩したり頭を掻きむしったりする前にもう少し思ったことに集中したらどうだ。もう少しストイックでいて良いのじゃないかと思った。しかし、ここで気合いと根性といったような出来もしない体育会系を自分に対して向けるのはまずくいくだろう。工夫だ。工夫。 例えば、何かのアレルギーがある人は工夫の大切さを知るはずなのである。これを食べるとこうなるからとか、金属アレルギーだけどアクセサリーをつけたいから、こういう素材のものを、というのがあるはずなのだ。 そういう人に比べると私はただその場の思いつきに任せ過ぎなのだ。生活、流れていく時間、感情や欲という闘牛士がひらひらさせる赤い布に突撃する私は牛。紙に書いた自分との約束なんかしれっと破り、何時に寝て何時に起きるか、そういうことも自分でわからなかったのだ。 まぁ、あまり自分を責めるのは止めよう。ただ、中々できなくとも、変わろうという意思を持ち続けることは忘れずに。一気に変えようとしてもリバウンドがくるし、潔く自分のことを諦めるのもやっぱり違う。大事なことはいさぎわるく。 果たして、この自己満足という四字熟語がばっちり似合うこの日記はどこへ向かうのか。今日はぐだぐだしていた時間にこのことについて考えた。ひとまず、日記のことは置いといて、自己満足というやや嫌われがちな言葉について考えてみた。中学生くらいの頃、山田かまちの詩で、自己満足、、という言葉ではなかった。自己中心についてしっかり考えないと、他人中心になってしまう、、という言葉だったか失念してしまったのだが、とにかくそういうことを書いている詩があった。他の詩にも、自己中心という言葉がでてきた。そうした、悪い意味とされる言葉を一度自分の中で噛み砕き、それが結果悪かったとしても、、そういう試みが気になる。あるかどうかもわからない未来よりも輝かしい過去の方が良いというのはリリー・フランキーさんの言。 私は、自己満足が他人の満足につながるようなことが良いと思っている。その為にも絵を描いていきたい。自己満足と公共のマリアージュというのが今日頭の中に浮かんだ言葉であった。その時、ドリームシアターのENEMY INSIDEを聴いていた。間奏のプログレな展開、カオスに盛り上がる部分は部活を辞めて暇で暇で...