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絵を描く前の日記

 朝の5時起床。良い感じだ。朝食をとりたいがスーパーが空いていないのでコンビニでミックスサラダとカニカマスティック、じっくりコトコト濃厚コーンポタージュを買った。バーモントカレーが家にある。ミックスサラダに切ったカニカマをのせてドレッシングをかけたものと炊いたつや姫という山形のお米に湯煎したバーモントカレーをかけたカレーライス、じっくりコトコト濃厚コーンポタージュの三つを食べようと思っている。じっくりコトコト濃厚コーンポタージュは初めて食べる気がする。子どもの頃、この商品のシリーズがテレビCMで流れていたのを見て、じっくりコトコトという語感に、旨そうと思ったのを覚えている。遂にその味を知ることになるわけだ。期待。じっくりコトコト手間ひまかけてと裏面に商品説明が書いてあるわりに、約一分でできあがりというスピーディーと手間ひまの両立を遂げた画期的な商品である。


アンディ・ウォーホルの日記を読んだことを不意に思い出す。コーラを買った。一ドル。とか、そういうことがひたすら書いてある日記で、上巻と下巻があり、アーティストの日記というエモくなりがちなジャンルにして、ドライ過ぎて笑ってしまったことを覚えている。

米を炊いている。あと三十三分だ。こういう、何かをしている間に別の何かをする時に、子どもの頃に好きだったゲームキューブのゲーム、ピクミンを思い出す。オリマーという謎の宇宙服を着た少年だかおじさんだかわからない小さなキャラクターを操作し、ピクミンというこれまた謎の、何の理由があるのかわからないがオリマーを慕う触覚の生えたオリマーよりも小さい生き物をオリマーが投げたり物を運ばせたりしてゲームを進めていくのだが、そのゲームに必要なのがピクミン三十匹が物を運んでいる間に、他のピクミン二十匹が橋を開設するというような二つや三つのことを同時並行で行う技術であった。
今の現実で例えるなら、炊飯器というピクミンが米を炊いている間に私というピクミンがこの日記を書いているということになる。

米を研ぐ時に、爪を立てず手のひらで優しく研いだ方が良いということを聞いた。こういう知恵をもっと知り、生活に対する解像度を上げていく。
これからまたなるべく自炊をするようにする。外食はお店の人に作っていただいたものをいただくので、完成形が提供されるのだが、自炊の場合は未完成状態から完成させていく作業があるので、その間に五感が刺激されて面白い。私はきのこ類を炒める時の匂いが好きだ。そして何故か、炒め終わったきのこからはその匂いがしない。熱されている最中にだけする匂いがあるということなのだろう。

外食は電車で、自炊は自転車という感じもある。
この調味料を入れるか入れないかというのが、この道を曲がるか曲がらないかという。
でも外食も素晴らしい。空間も混みで楽しめるからだ。するなら好きなお店に行こう。

日記を書き終えたら絵を描こう。やはり日記を書き出してから調子が良い。こういう生活を拡大鏡で見ることは日記を止めてからあまり無かったのだが、書きはじめると復活する。何かに気づいたとか、そういう些細なことを楽しんでいきたい。綺麗な花が咲いていたとか、ご飯が美味しくて、これはどういう味付けなのだろうとか、そういうことをわかるのに私にとっては言葉が必要になる。それができれば長生きしておじいさんになっても楽しめそうだ。いや、そういう素敵な些細さを積み重ねることができればおじいさんになった方が楽しいはずだ。

私は、ノーフューチャーに刹那的に生きる気持ちがすごくわかる気がする。歳を追う毎に今まで楽しめたことが楽しめなくなるのだ。それこそ子どもの頃は隣の駅に行ったくらいのことで楽しめたのが、大人になればそんなことでは楽しめなくなり、今好きなものも十代の頃の熱狂的に好きという感じともまたちょっと違うのであり、このことを衰えと感じるか成長と感じるか、はたまた何か別の言葉をつけるのかで私のこれからの生活が決まってくるはずだ。楽しめなくなってきたからもっと刺激をというのは一つの選択だが、あまり行き過ぎれば私の場合破滅一直線である。しかし、楽しめない、退屈だ、退屈というかもう苦痛で仕方がないのだという状態が延々と続くのも私にとって緩やかな破滅であり、それであるならもう一度、隣の駅に行くことを楽しむことにしようというのが私のやりたいことの一つである。とはいっても、うわぁ隣の駅だ、凄すぎるとなるのは流石に難しいので、子どもの頃とは違う感覚を持ってそのことに臨む。今日は良い絵が描けそうだ〜

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