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アラーム

 9時に起床。8時15分、30分、45分、9時にiPhoneのアラームを設定したが、結局9時に。

この、1時間を15分毎4つに分割してアラームをかける手法をよくやるのだが、ほぼほぼ毎回最後のアラームでちゃんと起きる。まだ後があると油断するのだろう。更にはスヌーズという本当は意味をよく知らない概念があり、寝ぼけてそのボタンをいつも押すので15分毎にアラームが鳴る方則も崩れ、1時間中アラームが鳴りまくっている。アラームの音は変更できるのだが、アラームというより、曲といった方が良いようなものもあり、しかし日常的に聞きたいかといったらそういう感じでもなく、音楽だけどアラームっぽい音楽が内蔵されている。こういう曲を作るプロの人がいてそういう人が作っているのだろう。不思議な仕事である。いや、普段はガチガチに作曲している人にApple社が頼んだのだろうか。どちらにせよ素人の仕事では無いのだろう。これはアラームや着信音っぽい、ぽくないというような会議を社内で行ったり、それらが正常に鳴るかどうか等をテストしたりするのだから、iPhoneを作るというのは並の作業では無い。他のスマホやガラケーにしても同じことなのだが。なぜ、数字を押すと他人と会話ができるのだろう。電話が無い時代に遠くの他人と会話したいという欲望を持った人が沢山いたのは想像に難くないが、それとそれを作り上げてしまうのでは全然違うのである。生まれた時から囲まれていると気づかないが物凄いテクノロジーの時代を暮らしているのである。そして私はそれに乗っかるばかりで成り立ちをよく理解していないのである。Wifiというのが何かもよくわからない。急に、Wifiとは何かと訊かれたら、答えに窮するだろう。あの、あるじゃないですか、電波ですとしか言えないのではないか。これではテクノレベルズ失格である。疑問を感じたら都度勉強していきたい。


今日と明日は絵が描けないのだが、こういう絵を置く時間も大切という気がする。ただ、日記をかくのはどこでもできるし毎日書くと宣言しているので書く。こないだBluetoothのキーボードを買ったのは良かった。ノートパソコンを常に持ち運ぶのは本格的過ぎて気がひけるが、これは持ち運びしやすいので持ち運ぶようにする。乾電池式なので電池が無くなるのが心配だが。やはりキーボードというやつは合理的にできていて、慣れればこのフォーマットが一番速く文章を書くことができる。iPhoneで指のフリック操作の方が速く書ける人というのもいるのだろうか。たまに高速で指を動かしている人を見ることがあるが、職人を感じる。私の場合はフリック操作だと考えに指が追いつかないという感じがある。手書きの文字だと尚更そうだ。しかし、速度は負けるが内容によっては手書きの方が良かったりする。私の性格があるとして、手書きの私とキーボードの私は別の人という感じもある。最近このことが気になる。実は同じ日本語の言葉でもキーボードと、手書き、会話、それぞれが別の言語なのかもしれない。実は誰しも自然にそれを使い分けて暮らしているとも。

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