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身体1

 疲れていたがなぜかほぼ眠れずヘトヘトになっている。疲労。人体の不思議である。先週寝過ぎたのだろうか。Y1000というヤクルト社のだしている自律神経に効くぐっすり眠れる飲み物があるので、コンビニに売っていたら今日買って飲もう。この飲み物の存在を意識しはじめてから、Y1000の列だけ綺麗に無くなってることがほとんどだ。それだけ睡眠に関する悩みを抱えている人が多いということなのだろう。


世間的にもこの飲み物が話題になっているらしい。世間的にというのは何でどこのことなのかはわからないが、とにかく多くの人の関心を集めている飲み物である。

顔を洗った。身体を大きく後ろに反らす。何も聞こえる音はしないが、背中の筋肉の奥の方からミシミシいう音がする気がする。体勢を戻すと肺に溜まった空気が喉を通って勢い良く口から出る。呼吸と声の間のような音がする。頭が少しすっきりする。
最近はつけていなかったりもするが、長年のマスク着用の癖もあってか呼吸が浅くなっている。深呼吸をしよう。良い気持ちや悪い気持ちは身体からもやって来る。

口を開けて下顎を上下左右に動かす。大きなあくびをすると涙で視界が滲む。あくびの涙と悲しくて流す涙が同じ液体なのが不思議だ。不意に涙の存在が気になる。今年は悲しくて泣いたりしていない。二年に一度くらい悲しくて泣いてしまう時がある。これは大人として多い方か少ない方かどちらに入るのだろうか。笑い過ぎて泣くことや、嬉し泣きや悔し泣きというのもある。 笑い過ぎて泣くことは半年に一回はあるな。嬉し泣きはあまり記憶が無い。嬉しいにも関わらず謎のポーカーフェイスをしている時が多い気がする。これは私の微妙なところだ。泣きながら踊り喜びを表現した方が清々しいという気持ちもありながら、そんなに簡単に泣くものでは無いという大人としての呪縛から逃れられないでいる。五歳くらいの子どもの涙の良いところを受け継ぎながら悪いところは理性によって抑えたい。今から毎日兄弟喧嘩をして泣いたりしていたら身が持たないからな。

もう一度伸びをする。書くということは私にとって背筋が丸まることなので、背筋を反らすと気持ちがいい。背中の筋肉が喜んでいるという気がする。筋肉というのは今の状態と逆の動きを常に求めているのだろう。背筋は身体の面積としても大きく重要だという気がする。マッサージに行って爆睡したい。さっきから背中を自分の指で押しているが、効果が想定の範囲内なのである。他人に指圧してもらうことで想定外の効果が生まれる。あともう一つ、背中は人体の構造的に自分の指で押しづらいというのがある。と思って腕を揉むのに移行した。背中よりやりやすい。手のツボも良いかもしれない。むむ、この箇所を押すと痛いということは今の私は肝臓がやられているとか、前より良くなったとかわかるようになったら面白い。セルフアナログスキャン。もっと自分の身体を労わるべきだと感じてきている。明日は絵を描かない時間を作ってその間をボディメンテナンスタイムにしよう。効果的なストレッチの方法等も調べながらやってみる。なんでもかんでも自己流でやってしまい独りよがりなところがあるので、素直に学ぶというのが私のこれからの課題である。

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ていぎ

夏バテが続いている。今は布団の上で横になっているところ。さっき、茄子と豚肉の炒め物定食を食べた。最近食が細っているが、食べないとどんどん食べれなくなるのでね。食べよう。 ここまで書いて二時間ほど眠ってしまった。一番気持ちの良い眠り方だ。クーラーをガンガンに効かせて、布団にくるまれた無気力なサナギと化した自分に嫌気がさすが、焦れば焦るほどに無気力であるということを自覚させられるだけなのでやめておく。ゴロゴロする幸せに意識を向ければいい。自炊もめんどくさいので外食。もしくはパンとか弁当とか買って食べるか。私は結構、食べ歩きみたいなのが好きだ。横浜の中華街とかで。落ち着きが無いのだろう。落ち着きが無いというのは悪いこととされるが、果たしてどうなのか。思うに日本は他国と比べて落ち着き度がかなり高い国のように見える。だからなんだ、というのははいのだが、ずっと思っていることだ。思考のゴミ箱だ。 駅に向かった。今まで何回、駅という場所に来て、これから何回、駅という場所に向かうのだろう。小学生の算数の問題がここに。一生において駅に来た回数が多い人と少ない人がいるだろうな。車生活の人々なんかは学生以来電車なんて使ったことない人もいるそうだし。なんか、それはすごく楽しそうだ。マイペースにいけるというか。ただ、怖いのは渋滞だな。 書く文はこんな感じだが、読む文としては、名だたる哲学者の本だったり、ちょいと難解な文が好きだ。全くわからないのでなく、半分くらい内容がわかるような文。私は、考えを固める為に文を読むのでなく、考えを揺らす為に文を読んでいると思う。考えが揺れてまとまらなくなるが、分け隔てなく他者の文を読もうとしているということでもある。しかし固まる為に読みたいという気持ちもわかる。固まる為に読む、知る、聞くなどする場合には、何に触れるかを絞る必要がある。美容を学びたいのであれば、美容を学ぶ人、関心がある人や教える人、本、などなどだが、そもそも美容などいらないという人や文に触れるとなると固まりが解かれたり、意識が足踏みしたりするようになる。ここでいう美容という単語は他の言葉と入れ替えてもいい。芸術でも絵でも音楽でも仕事でも。定義が狭い言葉と広い言葉とあって、狭い言葉について悩む人は少ないが広い言葉について悩む人は非常に多い。私もその一人である。これは爪楊枝である、という考えが人による...

今日も台所から

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