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道具の使い方

 エアコンが直った。直ってみると昨日までどうやって生きていたのか謎である。サウナのような部屋の中で裸で扇風機の強の風を至近距離で当てながら暮らしていた気がする。 正午頃と寝る時が辛かった。気温で性格も変わる気がする。夏の私と冬の私は違う。朝と昼と夜も違うかもしれない。


絵の支持体作りをした。かなり地味な作業なので作りながらyoutubeを見るようにしている。私はインプットをするのは大切だと思いつつ、ただ見るということができないので、こういう風にながら見をするのは良い。支持体は家に届くチラシをケント紙にコラージュとして貼り合わせてからジェッソを塗る。そうするとうっすらコラージュした部分が見えるようで見えない感じになり、また、貼り合わせた継ぎ目がでて、紙も少したわむ。この、たわむのは少し想定外で、おそらく絵を描く人は避けたいことだと思うのでどうかなと思ったのだが、琉球グラスの存在を思い出し、たわみを活かすことにした。琉球グラスというのは沖縄のガラスで、明治時代からあるようなのだが、私が関心があるのは戦後に生まれた素敵なコップや器の方である。物資の不足により今までと同じ作り方ができなくなったガラス職人の人たちは米軍の人が捨てたコーラや酒の瓶を砕いて溶かし、そのガラスを再利用したのである。しかし、当時のガラスというのはあまり質が良いものでは無かったらしく、再利用ガラスにはどうしても気泡が入ってしまう。戦後の琉球グラスが生まれるまでは、ガラスのコップに気泡が入るというのは未熟な職人の証であったので避けられていたのだが、物資が不足しどうしてもコーラの瓶やらで作らなければならなかった沖縄の職人達はむしろその気泡を活かしてどういうグラスを作るかという方法にでたのである。万事塞翁が馬。足りない状況から捻り出したアイディアが足りている人の心を動かしたりする。使いたい物が手に入らないとか、お金が無いとか、才能が無いとか、他の人に比べて自分はこういうことができないというコンプレックスとか、自分にもあるけれど、それを克服する過程がユニークな、オリジナルなものだと思うのだ。こう書くと強くなって乗り越えろみたいな根性論に聞こえるが、そしてそれでも良いのだが、この琉球グラスの場合はそういうことではなく、そうなってしまうということを活かすという発想があるのである。そして私も物事にはそのように取り組みたい。できないことを力技でできるようにしないということである。

そのことと関連して、私は今、最初書いた文章と重複するが絵の支持体作りをしながらyoutubeを見ているのだが、今ハマっているのがDJ kocoさんという人で、良い選曲をしつつゴリゴリのスクラッチをやる人なのだが、そしてそのスクラッチが神業というか、私のような友達の家でしかターンテーブルに触れたことがない人にも明らかにすごいことがわかる曲のつなぎ方をして、楽曲の紹介者でもありつつ楽曲を作った人にも想像できなかった展開を生み出しちゃう方なのだが、本当にすごい。そもそもターンテーブルというのはただレコードで音楽を聴くという目的で発明されたものなのだと思うが、それを使う人達はターンテーブルを発明した人が思いもよらなかった、ある意味正常な使い方ではないバグとしての使い方をしはじめ、結果その文化は根付き、もう私の世代でDJという言葉を知らない人はほとんどいないであろう状態になっているのである。そして、その中にも楽曲の紹介者兼、私のような踊りたがりを踊らせる格好いいDJの人達や、他人の曲を使った自己表現としてやっているもう何を起こしているのかわからない格好良い人達や、例えがその二つしか思い浮かばないが、色んな考え方を持ってやっている人達がいるのである。洋服で例えると買ってきた古着にペイントして提示するような感覚だろうか。あまり詳しくないのだが、DJ krushさんという伝説的なDJの日本人の方がおり、その人はもう、DJで表現の域に入っている人なのだが、その人のインタビューを読んだことがあって、感銘を受けた思い出がある。ターンテーブルというのはギターやピアノといったような楽器というのともまた違うのであり、そのことにコンプレックスを持っていて、いつか生楽器の人達と一緒にやれるような表現をやりたかったというインタビューだった記憶があるのだが、その成果というのは凄まじいものであり、最早ギターやピアノでは到底できないような表現が生まれてしまったのである。勿論、ギターでしか、ピアノでしかできないこともあるのだが、こういう先人のすごい人達によってレコード再生装置としてのターンテーブルとは別のジャンルの楽器としてのターンテーブルが生まれたのである。それもターンテーブルを発明した人が思いつかなかった使い方で。ギターを発明した人は勿論楽器を作るという意識であったはずだが、ターンテーブルを作った人は楽器を作るという認識ではなかったはずだ。この、購入者が販売者の想像を超えた使い方をするということが気になる。

iPhoneを作っている会社はAppleという会社だが、Apple社が想像もつかない使い方をしている人がたくさんいるのだろう。もしかしたら私もあなたもそうなのかもしれない。そういうことも購入者が販売者の想像を超える使用方法の一つである。

その角度で考えていくと物事が面白い。絵の具を作っている会社がどうその絵の具を使うのかは購入者の自由であり、その中で表現が生まれていく。飲んでしまったりする人もいるのだが。
絵は絵なのだが少し彫刻の要素もある物質を作りたい。なんというか、念力物体を作りたいという気持ちがある。

コメント

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2024年3月7日

3月最初の日記。期間が空いてしまった。今日は目覚めるとひどい2日酔いだった。近所のスーパーで経口補水液と野菜ジュース、バナナを買って、イートインコーナーで飲み食いした。1日初めの飲み物1口目。ぷはぁと声がでる。あまり気にしていないが、座る時にどっこらせと言うお爺さんになる要素が私にはある。そのまま色んな食材買って自炊。2日酔いというのは、普段思わないことを思うようにできているのか、あぁ、なんでも、丁寧に袋やパッケージに入れられて売られている。もやしの袋然り、納豆は3個入りセットで丁寧に梱包されていて、キチっと積み上げられている。どの梱包も寸分違わず、目に見える違う部分としたら賞味期限の印刷くらい。奥の方に手を伸ばし1番賞味期限が遠い納豆を買った。アンディ・ウォーホルのキャンベルスープ缶の作品を思い出す。あの、本気だけど皮肉でもあるような良くわからないあり方は結構好きだ。なんとなく、ロックの時代の作品という感じがする。華々しさと自分自身や自分が生きている文明に対する自虐が同居している。だからか、ロック音楽のアルバムというものは1曲目で車の自慢をしたかと思えば、2曲目ではダメ人間のバラードになったりしていて、そういう表現の為ピエロ役を買ってでるような所も結構好きだった。まぁ、そうでない人が沢山いるのもわかるけれど、根本的に自分を下げて矛盾を楽しむユーモアがあって、そういう所に今また惹かれはじめている。甲本ヒロトの良さとラップスターの良さは結構違う気がする。と、詳しくないが今のアメリカのラッパーであまり伝統的な感じがしない人、例えばLil uzi vertの曲を聴いたりすると、も、もしかしてふざけているのでしょうかとも感じるので、文化が受け入れられ成熟してくるとちょっとおちゃらける感じの人が求められてくるのかもしれない。 暫く書いてないと指筆がはかどらない。やはりなるべく毎日書くべきだな。無料でできるのだし、何か発見をするのも文章を書いている時が多い。 唐突なコラージュみたいな文章だ。「自分にとって」絵を描くのは、やっぱり何かの為って所がもっとあった方が良いんじゃないかと思っている。今まで、絵を描くことには理由がいる→絵を描くことには理由はいらない という思考の経緯を辿っていたのだが、ここにきて違う形で当初の意識にまた戻った。違う形とは何かを考えるのなら、元々どういう形で...

つづき

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