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技術に対する反逆者たち

昨日の夜中に同郷の親友から目的の無い電話があり、一時間近く話し込み、良い時間を過ごした。世にも奇妙な 三十歳。高校生のカップルか。

この日記を書くことも仕事にしたいと思っている。しかし、仕事というのは一体なんだろう。おそらく誰もが一度は考えたことがあるだろう。例外無く私も考えている。考え続けている。もう、考えすぎなのかもしれない。というのも、それが良いとか悪いとかではなく役所で働く人の仕事観というのは、まぁ、仕事ですからねという人によって違いはあるだろうがなんとなくこのぐらいの幅に収まるというのがあるようで、それは公務員の共通認識として存在しているようだ。勿論一部例外もあるだろうがその環境の場合、自分の仕事観を設定しやすい。
しかし、私のような私務員たちの場合は仕事観が文字通り人それぞれであり、誰かにとってしっくりくるものが人によっては全く馴染まなかったりする。共通認識を探してそこに合わせるという方法よりも個々人が独自の仕事観を設定するという方法が合っていると思う。
この方法は自由度は高いが自分で設定しなければいけないので、これが中々どうして難しい。
正直、お金は発生していないけど仕事ですと言えばそれもそうなのであり、お金を貰っているけど趣味ですと言えばそれもそうなのだろう。家事をすることだって仕事だとも思うし、生きていること自体が仕事のようにも、単なる暇つぶしのようにも思う。

抽象度を下げて、具体的に考える。
私にとって仕事というのはありきたりだが、何かの行為をしてその対価としてお金をいただくという状況があった時の、その行為のことを仕事と考えているだろうか?
何を、そして誰に質問しているのだという感じだが、とりあえず今の所そういう風に思っている。思おうとしているのかもしれない。
この日記を書くということは行為である。仕事にするにはお金をいただかなければならないということになるのだが、どうするか。そうだ。投げ銭制にしよう。以下に私の銀行口座の振込先を書いておきます。
横浜銀行 湘南シークロス支店
普通預金
店番617
口座番号1098468
モリヤリクオ

あと、エッセイを書いて欲しい等あったらインスタグラムのDMからご連絡ください。

よし。仕事っぽくなってきたぞ。
前置きが長くなってしまった。昨日の続きを書く。iTunesでiPhoneで何を聴くのか。私は外出する際はイヤホンをつけて、家ではイヤホンをつけないでiPhoneのスピーカーからそのまま音楽を聴くのだが、この二つのタイミングで聴く音楽を変えた方が調子が良いということに気づいた。特に家にいる時、いる時というのは大体何か作業をしている時なのだが、この時の選曲というのはかなり重要だ。というのも私は子どもの頃から現在まで多動症の傾向があり、家でじっと何かをするということが非常に苦手なのだ。思い出の音楽を家で聴いては絵を描くのをほっぽり出してぴょんと外に出て無駄な散歩をして疲弊する。この、無駄な散歩が私の人生のボトルネックになるだろう。いや、散歩は無駄では無いでしょ。健康にも良いし、気分転換になるし、私も良くやるよという声が聞こえてくるが、それは休日に三十分から一時間程度の散歩を季節を感じながら爽やかにこなす緩めの散歩者、ソフトサンパーの場合であり、私のような加減の知らない泥くさいハードサンパーになるとそんな時間では済まず、あっという間に一日が終わったりしてしまう。私は代々木公園から江ノ島近くの海岸まで二日間かけて歩いたことがある。理由は特に無く、そこに道があったからだ。足から血を流し、最後は酒を飲んでいたのもあってかほぼトランス状態になっていた。そこまでハードだったのはさすがにその一回だけだったが、他にも十二時間級の散歩は何度もした。完全に散歩狂である。十年前に亡くなった祖父は生前、歩こう会という皆んなで歩くという活動をしている団体に所属していたのだが、その遺伝もあるのだろうか。
何の自慢なのだ。とにかく、散歩の時間は削り、創作に時間をあてていく。

とは言ってもなぜか同じ失敗をしてしまうのが私の特徴である。やはり決意を新たにする、心を入れ替えるといったような精神論でなくて具体的にどうするのかを決める必要がある。外に出たくなくなる、家で絵を描きたくなるような、この日記を書きたくなるような音楽を家では聴くという療法でいこう。
家で絵を描く時に思い出の曲を聴くのはダメだ。エモーショナルになってやってしまうから。散歩を。
歌詞がある音楽も散歩を誘発しやすい。そうするとかなりジャンルが絞られる。そして最後の難関は身体が動き出しそうな最高のリズムである。もう散歩しながら小踊りしてしまう。そう。私はクラブで踊るのが三度の飯より好きなのだ。結論を出さなければ。なるべく聴いたことのない、つまり個人的な思い出の無いジャンルの音楽で散歩を誘発しないような音楽を絵を描く時には聴くようにしよう。その観点の私としては、アンビエントやテクノといったジャンルが気になっている。その中にも細かいジャンルが色々あるのだろうが、その辺はおいおい勉強したい。今聴いているのはMoritz Von Oswald Trio & Heinrich KobberlingのChapter4という曲。feat Laurel Haloさん。静かな曲で日記の世界に入りこめる感じがある。語弊があるかもしれないが、こういう、かましに来ない音楽を作る人の考え方が気になる。派手でめちゃくちゃすごいこともできるのだが、そういう感じは出さずに、盛り上げきらない。抑制されたものを作ろうとする感覚を知りたい。

素人でハウスとテクノの違いもいまいちわかっていないのだが、体感的にはハウスと呼ばれるものはハウスダンスというストリートダンスのジャンルがあるくらいなので基本的にダンサブルで、テクノと呼ばれるものは踊れるものと踊ることを目的としていないものが混在しているという印象だ。
テクノには音楽体験としてでは無いが、言葉を介した意味体験として前に感銘を受けたことがある。私は語源を調べるのが好きで良くやるのだが、とはいってもGoogleでWikipediaなのだが、この、Wikipediaのテクノ(ダンスミュージック)の章は色んな示唆を私に与えてくれた。
以下、Wikipediaのテクノ(ダンスミュージック)の語源から引用

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一説では、テクノの第一人者であり名付け親でもあると自称するホアン・アトキンスが、未来学者アルヴィン・トフラーによる著書『第三の波』(1980年発行)の文中より「テクノレベルズ」(英:Techno-rebels)という造語に触発を受け、そこから自身の曲名などとして使っていたことに由来する。テクノというジャンル名が定着する以前には、単にハウス・ミュージック、または地名からデトロイトのハウス・ミュージックと自他共に呼んでいた。

トフラーの造語である「テクノレベルズ」とは、日本語に訳すなら「技術に対する反逆者たち」となる。作中でトフラーは、産業革命以降の重厚長大型の大企業が世界を動かす仕組みを第二の波とし、それを超えていく新しい技術革新の流れを第三の波と規定した。その上で、次々と生まれる革新的かつ時に人類にとって危険ともなりうる新しい技術を野放しにせず、それに対しての管理を主張し使いこなす人々のことを「第三の波の代理人」にして「次の文明の先導者」と呼び、ある意味で逆説的にも聞こえる「技術に対する反逆者たち」と名づけた。
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ここで、題である技術に対する反逆者たちという言葉がでてくる。
なんだか、今の時代と繋がって感じないだろうか。アルヴィン・トフラーさん気になる。このテクノレベルズという造語に触発を受けたホアン・アトキンスさんもすごい。
私はこの文章を読んで興奮した。私はひょっとするとこの、テクノレベルズになりたいのかもしれない。Wikipedia情報だけで書くのは執筆家としてどうなのかとも考えるが、この興奮を伝えたいという気持ちに負ける。
テクノレベルズというのは語感とは裏腹に、技術愛好者ではなく、技術に対する反逆者たちなのである。テクノレベル”ズ” というのは複数形ということなのだろうか。個人でそういう人がいたらその人はテクノレベルと呼ぶのだろうか。本を読めという話なのだが。
この反逆者たちは、ラダイト運動のように仕事を奪う機械を打ち壊すのでもなく、ダメな所も認識しつつ使いこなし創造行為に及ぶ人々なのである。おそらく。

次々と生まれる革新的かつ時に人類にとって危険ともなりうる新しい技術というのは、私が生まれてから沢山生まれてきたのでイメージがしやすい。こういうものが生まれる時は大抵、両手を挙げて推進する人と否定的に捉える人、無関心な人に分かれるが、新しい関係性を作ることはできないだろうか。
私の妄想の中のテクノレベルズは、否定的に捉えたものをただ否定するのでなく、それから離れるのでもなく、新しいアイディアを持ち、その中に突入するのである!そういう人に、私はなりたい。

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