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5月, 2023の投稿を表示しています

6月へ

一昨日、人生二回目のグループ展がおわった。来ていただいた方や、気にしていただいた方、ありがとうございました。これからもやります。 今年、個展をしたい。自分の絵が変化していったり、昨日描いていたものと全然違うものになったりすることに慣れてきた。もうそれはそれで仕方がないのだと。気分屋で未完成、、しかしそれは同時に人間らしさでもある。「ダメな酔っ払い」みたいなことを人工知能もできるだろうか。 ギャラリーというわけではないけれど空きスペースという場所が気になる。所謂芸術芸術しているわけではなく、生活必需品や工芸品を作っているわけでもないという、すごく微妙な位置のことを自分はやってきた、そしてこれからもやっていこうとしている。ご自由にどうぞというフリースペースは自分に合っているかもしれない。昔、空き地で良く遊んでいたのを思い出す。その空き地は、本当に空き地の中の空き地であって、石があったり砂があったりするだけだった。そこで鬼ごっこをするか、石投げ、缶蹴り、カナヘビを捕まえたり、、何もないので遊び方や楽しみ方を作るしかなく、しかし、その行為は子どもの頃の自分にとってはゲームセンター等で何か提供された遊び方をそのままやるよりも楽しいことであった。 この、空き地の感覚というのは情報過多やルールが増えすぎて人がついていけないという状況を癒していく可能性を持っているのではないか。そのように、可能性を世界に少し付け加えていくことの興味がある。 久々に文章を書くと、筆、いや、指がはかどらない。自分の髪の毛を触りまくってしまう。

制作記6

気が散りやすい欠点を活かした作り方や暮らしをした方がいいという風に思った。pink floydのwish you are hereを聴いている。音楽が好きなのは、ところどころで気が散っていくことを受け止めてくれるからかもしれない。お、こういう音がでてきた、とか、その音が引っ込んだ、とか、想像の外側にあるメロディーが不意に現れたり、元のメロディーに戻っていったり。気になっている不朽の名曲がまだまだ人が生み出した歴史の中にあるのは楽しみなことと感じる。と、これからも生まれていくんだろう。 気が散りやすいというのは、ダメなことというか、直すべきことという感じがあったが、こと何か作ることについては案外使えたりする感覚でもある。 何となくここにこれを描いてみようとか、前描いたあの絵を切ってここに貼ろうとか、ある意味では集中できていないのであるが、発明にも結びつきやすい。新しい料理が発明される瞬間を想像してみよう。それは、意識して生むことが多いと思うが、偶々生まれるということもあるだろう。ポテトチップも偶々生まれたという。何か、あれがないからこれを入れてみようとか、こうしようと思ったけどなんとなく気分が乗らないから違うやり方でやってみようとか、そういう偶然が失敗作を生む時もあるが、まさかまさかの良い効果を生む時もあるはずだ。 pink floydのcomfortable numbを聴いている。ベタに、ギターソロというものが好きだと思う。この、ギターソロ中にも他のパートの楽器も演奏は続いているわけだが、何故ギターソロだと思うのかが昔から気になる。一つのパートだけ異質な音を出しているからだろうか。しかし、何がどう異質なのかはいまいちわからないのである。 気が散るというのは、何か一つに対して思うことがあるとして、そこに対して異質なことを思うということなのかもしれない。赤色に対して緑色は気が散っているのかもしれないし、そう考えると、気が散るのを活かすことで何か新しいハーモニーを作るということもできる。 何か作る、作りたいモードでいると、他の日常的なことがキツくなってきたりするが、ここはうまく、二重感覚を楽しむというイメージでいよう。片一方だけあってもどの道調子が悪くなるのだから。車のタイヤの四輪を回すというイメージでいよう。

制作記5

 暑いか涼しいかわからない日、天気も曇りと雨の間のような名付けようのないものだったり。 決断力がなく、気が散りやすいというのが私の性格だと思った。今日も4コマ用の紙を買いに行って、開くと厚紙がでてきて、その厚紙が何か気になり、アクリル絵の具が使いたくなり全く関係の無い絵を描いた。出来がどうなのかは自分でも良くわからない。この、審美眼が曖昧というのも特徴な気がする。こうだから良いということに何処かでストッパーがかかる。逆も然り、、 曇りと雨の間のようで、カラッとしていない。もうすこしあっけらかんとした気持ちを感じたいが、これはこれで仕方ない気もしてきた。 4コマで下書きとかして、他の絵は全くしないで、自由に?やるというのは生理的にあっている感じはする。が、なんとなくそういうあり方が胡散臭いのはわかるのであり、ただ、それは他の人にとってというより、自分に対して胡散臭いのかどうかを考えて、わからないという。わからないことばっかりだ。 こうして書きつつ、結構イケイケな音楽を聴いている。誰しも自分なりの不思議なバランスがあると思う。

制作記4

 4コマいくつか描けた。同時進行で描く技術を急に身につけた。一個行き詰まったら他のやつをやる。それが行き詰まったら元に戻るかまた他のやつをやる。疲れたら眠る。

制作記2

今のところ自分の頭の中にしかないものがあって、それを目に見える形にすることは素晴らしい、と思いつつ、ばかばかしいと思いながらやっててもオッケーという気持ちでいればどっちの気持ちでできるね! とりあえずそれでいきます

制作記1

いつの間にか自炊や日々の考えを書き留める日記になってしまっていたが、元々は制作やそれにまつわることについて書こうと思っていたのであった。いつも、当初の目標と少し、または大幅にずれていく。そしてそれで良いしそうしかできないのだとも思う。気が散りやすいので、変形できる目標を持った方がいい。変更、とはまた違く、変形。AからBになるのではなくA+になっていく。 本日、日付の絵を描く以外はほぼ何もできなかったことを反省している。ガンズアンドローゼズの前身バンド、Hollywood roseは聴いた。しかし、もう自分を責めない。ただ、そのダメさを受け入,,, ここであの言葉を思い出さなければならない。自分に悩むな方法に悩め である。先ずは状況や環境から考えることだ。「自分にはできることとできないことがある」という一般常識として流通している発想を取り入れていかなければならない。でも、そういうの苦手だもんね。あなたったら本当に….  ここで言語の操作をするのだ。「今のところ」という言葉を導入しよう。そうすると、「今のところ自分にはできることとできないことがある」という文章になり、それなら割合と納得できるはずだ。 日付の絵、私はその日が何の祝日だったのかというのを毎日自分なりのビジュアルで描いているのだが、これは一つで見るよりもまとまった形、例えば1ヶ月分とか、1年分とか、そういう単位で見るのが良いと思う。 自分のスタイルがあるのが大切だということの意味する所が段々とわかってきた気がする。自分の行う、定点観測できるものが必要なのだ。そしてそれは具体的なかたちであればあるほど良い。そして私はこれを、スタイルではなくて、シリーズだと考える方が調子が良いことにも気づいた。スタイルと考えると、生き様や、アイデンティティ、信念、そういう言葉を連想し、そういうものが弱い私としてはこれからも自分でやるのは面食らってしまう感じがあるのだが、シリーズとして考えると、このシリーズの時はこう、あのシリーズの時はああといったように創作に向かう姿勢を分割することができるのだ。分割し、分割したものの中の世界としては一貫性を持たせる。例えば畑でトマトを育て、家で料理をし、ジムで運動をして、時たま街に繰り出し飲み屋で酒を飲み、帰って寝るという生活があるとして、その一つ一つをシリーズとして考えるのである。 こ...

無と

家の冷蔵庫の中の豆乳がダメになっていた。もう少し賞味期限スキルを持たなければ。それは多分色んなことに通ずる。 I must I must ばかり考えている気がするね。もう少し、得意を伸ばす方向にね、考えていきたいね。なにかのコーチみたいだけどさ。得意の大袈裟だが、地球という規模で考えれば、得意なことは特異なことなのかもしれない。何かが得意ということは何か突出しているということで、それは良くも悪くもなく別の何かからずれているということでもある。そのことをどう良くしていくか。悪くなることもある。 二元論に、良いか悪いか、良くしていこうという気持ちは細かなことに適用すると柔軟さを欠いて失敗することが多いが、こと、生きるくらいのスケールで考えるならこの気持ちは自分にとっては大切だ。先ずそれがないとディテールに過剰に集中し全体を見失ってしまう。そう、すぐに見失ってしまう。定期的に見直さなければ。Oh I must... 虚無やばかばかしさを恐れたり忌み嫌ったりするのではなくむしろ取り入れたり利用したりしていきたい。虚無に対して虚無を返し、何かがあるということになる!?   これら、虚無、ばかばかしさを例えばバットマインドと呼ぶとして、これを嫌い追いつかれないように突っ走るというのは若き私の考えであった。しかし、これは私の場合うまくいかないということに気づいた。何度失敗するのか、まるでエジソン。しかし、私は電気を見つけたのである。取り入れるのだ。突っ走る私は日に日に私自身についていけなくなり、俺についてこれない僕が寝込んでしまう。なんだかナルシストみたいだが、というか、そうなのかもしれないのだが、、そんな感じになる。 この、取り入れるというのは人により考えがわかれるだろうな。そして、取り入れないの方がわかりやすい所があり、素敵な所があり。ただ私が試みるにしては眩しすぎ、ピュアすぎるようなところがある。そして突っ走る私に危うさを与えてしまう。是非はわかれるが、というか是非がわかれないものなんて本当はあまりないのだが、ざっくり、現代文明が良くないという意思を持ったとして、それではどうするか。政治家になるとかでも良いのだが、ここはあくまで何かを制作するということで考えると、良くないから抵抗するものを作るというのは一つ。良くないからそれと違う文明のものを作るというのも一つ。良く...

コメディ・ライフ

みつばとベーコン、安かったパプリカと細かく刻んだしめじの炒め物美味しかったからまた作ろう。味付けは塩胡椒だけ。みつばは塩気の強い肉と合うらしい。しめじもまるっときのこの形で使うのと、細かく刻んで使うので味わいが違うことに気づいた。サイズ感大事なのね。ファッションでしょうか。 まるっと使うと個体としてのしめじ感があるが、刻んで使うと少し調味料のような役割がでてくる。自炊環境は最低限のものしかないが、このサイズ感について色々試すのはできる。やってみよう。薄く切るか厚く切るか、斜めに、サイコロ、みじん切り。 納豆にめかぶを混ぜて食べるのも美味しいことに気づいた。しかし、グーグル検索するとでてくるでてくる、私がオリジネーターではないというのことか。めかぶを茹でて、納豆としらすと混ぜる...絶対に美味いやつだ。次やってみよう。しらすはまだまだ開拓できていない。 爪の付け根が乾燥している。また、やや不摂生だったからな...  自炊も中々出来なかったし。しかし、私はそんな私を許すことにする。とにかく、私は完璧主義を克服しなければならない。 沢山の理想に押し潰されヤケになることを避けて暮らしていかなければ。身の丈にあった向上心を持ったり持たなかったりくらいで良いのだ。 いや、それで良いのだろうか、そうではない、私は...  そしてそこから大抵わけのわからないことになる。気をつけよう。もっとゆっくりやる気をだすような、だんだん好きになるようなあり方でいなければ。生活が短距離走すぎる。完璧な生活はもって2日間くらいしかできないということを理解しなくては。 最近電車の中では山口昌男さんの本を読んでいる。やはり、サーカスや演劇の元になったコメディアデラルテ、気になる。

つかれびと

日記が三日間空いてしまった。なんか、少し絵は描いたが、ほとんど空白の三日間という感じだった。自炊も全くやる気せず。強烈な西日を顔に受けながらラーメンを食べたり、北インドカレーを食べてナンが美味しいと思ったりした。寝るだけ寝て起きてぼーっとしている時に水を喉に流し込むと気持ちがいい。枯れた植物に復活する水をあげるような気分。 少し疲れやすくなっている。体力がある方だったのが災いしてか、脳が疲れているのに気づかない呪文を使ってくる時がある。仮に、私がすぐ疲れてしまう子どもだったりすればこういう時にはこうする、ああいう時には、、 疲れセンサーを駆使し、色んな技術を使って乗り越えるのだろうが、私には生憎技術がなく、強行突破しようとしてしまう。これから技術を身につけよう。 ポップアップが2週間後にあるが、どうするか。なぜか関係ないことを考えたりはじめたりしてしまっていたが、ここから少し集中。というか、自分が何をするかというのをまず決めないとなのである。 結構、パソコンがないのは痛いと思っている。なんとかiPhoneを駆使して色々できたらいいのだが。いや、いいのだが、ではなく、やってみよう。iPhoneの限界に挑んでみるのは中々できることじゃないしね。それ、普通パソコンでやるでしょということがiPhoneでもできるかもわからない。一応、グラフィックのソフトは色々とダウンロードしてみたので、絵を描きつつ使ったりしてみる。

ブック

iphoneのブック というアイコンを押したことがなかったのだが、押してみると宮沢賢治全集だとか、太宰治全集とか、そういうのを読めることを知った。このことについて、どうお考えですか、太宰先生。 文章を書くことが好きなわりには小説に触れてこなかった人生なので、ここから読んでみようかな。しかし、紙をめくるという行為や匂いも含めて読書と感じる私にとっては紙の本の方が好きだ。あまりこだわりのない私だが、読書に関しては保守的かもしれない。 重複になるが、文章を書きたい割に小説をあまり読んでこなかったな。読むと大抵ハマるのだが。一番最近読んだのはカミュの異邦人である。最近といっても、四ヶ月前くらいなのだが...   と、気づいたことがある。私は、文章として誰かの言葉を自分の頭の中に入れたいというよりも、自分の頭の中にあるものを外に出して定着させたいという欲求の方が強かったのだ。頭の中に考えが溜まって、それをただそのままにすることに欲求不満を感じるのである。その線でいくと、こうして日記を書くことは私にとってストレス解消という意味あいがあるのである。 昨日はコスモポリタンというカクテルの祝日で、カクテルの絵を描いたら良い感じに描けて、お酒飲みたくなって飲んだ。 そして、今日は、ロバの日。

GW...

 ゴールデンウイークは忙しいので絵が描けないな。まあいいや。あんまり、絵描きしていない週間もあった方がいいしね。 そうしてまたフレッシュに取り組めるようにもなるし、、 自炊はしようと思っている。どうせ何か食べなきゃいけないからね。家庭農園や畑をやってそこで採れた野菜を自炊してお腹を満たす生活、いわゆる自給自足なのだが、そういうことをやってみてもいいかもしれない。 YouTubeで、Steve walshという人がメジャーなアーティストの曲をまた別のメジャーなアーティストの声と演奏の真似でやるというのがあるのだが、これが面白い。

ことば

 イサック・デルガードさんの作ったという、Yo Te Queria Maria というスペイン語の曲を昨日初めて聴き、それが心と耳に残りすぎて今日は一日イヤホンをはめている時間はスペイン語の曲を聴いていた。何かこう、リズミカルな言語なのかなと思った。抑揚の強いパーカッシブな言葉たち。元々昨日この曲はヘラルドアルフォンソさんという人のライブ弾き語りアルバムで初めて聴いた。ヘラルドさんがギターをかき鳴らし歌うのだが、まあ、いわゆる弾き語りなのだが、なにかがちがう、歌詞がドラムと意味の役割を担っているような感じ、、 と、いっても伝わり辛いし自分でも良くわからないから時間を見て自分でスペイン語弾き語りをやってみよう。 言語によって歌う時にでてくる、もしくは歌いたくなるメロディが違うのではないか。私は破裂音的な声を音として使って、アコギと声の二重のパーカッションみたいなイメージでやってみたい。全然自分に合わなかったら止める。 韓国語とかも良い気がするな。 日本語は柔らかい感じがする言葉だと思う。

今日も台所から

最近、今日食べる料理と一緒に明日の分も作り置きするという技術を覚えた。昨日は味噌芋煮を4人前くらい作ったので今日も食べたし、なんならまだ少しだけ残っている。タッパーに入れて冷蔵庫に保管しておく。なんかチーズとか入れたり、ご飯と混ぜて食べたりしたい。アレンジアレンジ。編曲、リミックス作業、描いた絵をスキャンしてフォトショップで編集するようなことかな。 水を飲む。喉を通って胃に入っていく。前よりもそのことを感じている。 今日は少し疲れていたのか、早起きはしたものの、その後少し昼寝をしたりと横になっている時間が長い日だった。散歩したり絵を描いたりした。絵を描く時間が前より明らかに短くなっている。もう少し、そのことについても考えたい。長くした方がいいのか、これくらいで良いのか。むしろもう短くしきるべきか。前はとにかく意味もなくひたすら描いてた。今は何か世の中の中に、意味が無ければやってはいけないみたいな感じがダサいみたいな考え方があるっぽいのだが、私の場合は如何に。どちらかというと意味を求める人なのかもしれないと思う。 日付の絵に関しては、漢字でいう草書の描き方と楷書の描き方にわけたいと思っている。サラッとした良さとごてごてした良さがあるはず。間のある力の抜けた魅力と、ごてごてした厳しさや、ビシっと(擬音語)した魅力。水彩と油彩のちがいのような。 話が往復したり重複したりするのだが、自炊の際は写真をたくさん撮ることにしてみる。何の変哲も無いキッチンの玉ねぎの写真やテキスト、四コマやなんかを織り交ぜた本が作れたらいいなと。こんなの作ってみたよという。なんだよ対してインスタとかツイッターとか、そういうのと変わらないんじゃ。。というような内容を紙に印刷して編集するという作業を通してどういう風になっていくのか。ま、とにかく、絵と並行してゆっくりやっていくことですな。なんとなく、忙しくしなければならないという考えを止める。別にじっとしていたり寝ているだけの日があったって良いじゃない。 今日は散文の気分の日だ。言葉遊びをしたくなる。はっぴいえんどを聴いた。無性にアコギが弾きたくなり、少し弾いた。無性にアコギが弾きたくなる音楽というのがある。無性に散歩がしたくなる音楽もあれば、横になりたくなる音楽、踊りたくなる音楽、泣いちゃう音楽?  あと、男の人の方がギター好き率が高い気がする...