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制作記1

いつの間にか自炊や日々の考えを書き留める日記になってしまっていたが、元々は制作やそれにまつわることについて書こうと思っていたのであった。いつも、当初の目標と少し、または大幅にずれていく。そしてそれで良いしそうしかできないのだとも思う。気が散りやすいので、変形できる目標を持った方がいい。変更、とはまた違く、変形。AからBになるのではなくA+になっていく。

本日、日付の絵を描く以外はほぼ何もできなかったことを反省している。ガンズアンドローゼズの前身バンド、Hollywood roseは聴いた。しかし、もう自分を責めない。ただ、そのダメさを受け入,,,

ここであの言葉を思い出さなければならない。自分に悩むな方法に悩め である。先ずは状況や環境から考えることだ。「自分にはできることとできないことがある」という一般常識として流通している発想を取り入れていかなければならない。でも、そういうの苦手だもんね。あなたったら本当に….  ここで言語の操作をするのだ。「今のところ」という言葉を導入しよう。そうすると、「今のところ自分にはできることとできないことがある」という文章になり、それなら割合と納得できるはずだ。

日付の絵、私はその日が何の祝日だったのかというのを毎日自分なりのビジュアルで描いているのだが、これは一つで見るよりもまとまった形、例えば1ヶ月分とか、1年分とか、そういう単位で見るのが良いと思う。 自分のスタイルがあるのが大切だということの意味する所が段々とわかってきた気がする。自分の行う、定点観測できるものが必要なのだ。そしてそれは具体的なかたちであればあるほど良い。そして私はこれを、スタイルではなくて、シリーズだと考える方が調子が良いことにも気づいた。スタイルと考えると、生き様や、アイデンティティ、信念、そういう言葉を連想し、そういうものが弱い私としてはこれからも自分でやるのは面食らってしまう感じがあるのだが、シリーズとして考えると、このシリーズの時はこう、あのシリーズの時はああといったように創作に向かう姿勢を分割することができるのだ。分割し、分割したものの中の世界としては一貫性を持たせる。例えば畑でトマトを育て、家で料理をし、ジムで運動をして、時たま街に繰り出し飲み屋で酒を飲み、帰って寝るという生活があるとして、その一つ一つをシリーズとして考えるのである。

ここでは、
・畑でトマトを育てる
・家で料理をする
・ジムで運動をする
・酒を飲む
・寝る

の5シリーズあるということになる。そうして自分の中の様々なシリーズを成長させていく。こういう認識でいないと、もう酒を飲んでいる時にも寝ることと畑でトマトを育てることと家で料理をすることとジムで運動をすることで頭がいっぱいになってしまうのだ。そして、あろうことか私は31歳にして泣いたりしてしまう。何故、私は自分のことでこんなに手一杯になってしまうのか、多くの人々が各々色々ありながらもそれなりにスマートに生活しているのか、もしくはそう見えるのかが長年の疑問だったのだが、ここでようやく解決の途を見たと言っても良いだろう。彼らは分割の技術を持っているのだ。国語算数理科社会。


さぁ、自分の仕事をしなくては。私が制作においてやるのは、
・日記を書く
・Pote and friendsの祝日の絵
・日付の絵をまた別の紙に清書したウィークリーポテズ(上記2つでは草書と楷書の概念を導入したいと思っている。サッと描いた良さがあり、解像度をあげて描きこんだ良さがあり、その2つを味わうのがやりたい。そして、それらの比較の面白さを自分自身が楽しみ、また見る人にも伝わっていくのではないか。)
・Pote and friendsの4コマを描く。(私の処女作は4コマであり、これをもう一度新しい形でやろうと思っている。再来週にあるポップアップではこれをメインにしていきたい。)
・キャンバスに描いたりする絵画
(異形のダンスという言葉から私は、コメディア・デラルテという16世紀中頃にイタリアで生まれた即興演劇にたどり着いた。この、コメディア・デラルテがサーカスや演劇の元になったのだという。ちょっと調べると、でるでる、チャップリン、バスター・キートン…彼らは無声映画の役者で、無言劇のスターたちである。そして私の描く4コマは、無言劇なのである。私は、漫画やキャラクターの絵からよりも、無言劇から学ぶべきだという風に感じている。そしてそこから着想を得たものを絵画というシリーズ、フォーマットにしていきたい。つまり私にとって、チャップリンやキートンは今まで結びつきそうで結び付かなかったPote and friendsと絵画の橋渡し役のような、偉大な先輩だということになる。ここで、無言劇だと書いておきながら文章を書きまくっているのも疑問を感じないではないが…)

ここで、疑問を感じるのがポイントだ。シリーズにわけることが必要になる。日記で言語化し、絵を描く時にはもっとふわっとして、そういう風に分割していくこと、もちろんわけられないこともあるのだが、それを日々意識しなければならない。 Oh I must…

そして私は各々のシリーズを成長させ、Pote and friends無言絵本を一作目に描き、世界中で販売し、ドタバタ喜劇を通して愛と夢、そして勇気を伝え、Pote in the Worldと改名し二作目を作り、クラブで踊り、美術館で絵を見て、自炊をし、そして三作目以降はPote in the cosmosを火星人やフリーザに見せるのだ!!

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つづき

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