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6月へ

一昨日、人生二回目のグループ展がおわった。来ていただいた方や、気にしていただいた方、ありがとうございました。これからもやります。

今年、個展をしたい。自分の絵が変化していったり、昨日描いていたものと全然違うものになったりすることに慣れてきた。もうそれはそれで仕方がないのだと。気分屋で未完成、、しかしそれは同時に人間らしさでもある。「ダメな酔っ払い」みたいなことを人工知能もできるだろうか。

ギャラリーというわけではないけれど空きスペースという場所が気になる。所謂芸術芸術しているわけではなく、生活必需品や工芸品を作っているわけでもないという、すごく微妙な位置のことを自分はやってきた、そしてこれからもやっていこうとしている。ご自由にどうぞというフリースペースは自分に合っているかもしれない。昔、空き地で良く遊んでいたのを思い出す。その空き地は、本当に空き地の中の空き地であって、石があったり砂があったりするだけだった。そこで鬼ごっこをするか、石投げ、缶蹴り、カナヘビを捕まえたり、、何もないので遊び方や楽しみ方を作るしかなく、しかし、その行為は子どもの頃の自分にとってはゲームセンター等で何か提供された遊び方をそのままやるよりも楽しいことであった。
この、空き地の感覚というのは情報過多やルールが増えすぎて人がついていけないという状況を癒していく可能性を持っているのではないか。そのように、可能性を世界に少し付け加えていくことの興味がある。

久々に文章を書くと、筆、いや、指がはかどらない。自分の髪の毛を触りまくってしまう。

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GW1

今日は一日の途中でゴールデンウィークだと気づいた。なんとなく街並みの雰囲気も違ったからだ。路上でレッドホットチリペッパーズのコピーをやっている人たちがいてすごく良かった。ちょっとだけ踊った。can't stop addicted to the sinding. 世の中の連休といえば私にとっては昔から、忙しい日であるのだ。 世間はなんとかですねえと言ったり思ったりする時、狭く思うならそこは世間の外側、広くいくなら内側である。で、最近は内側にいるなと思っている。 iPhoneにデフォルトで内蔵されているgaragebandという音楽の打ち込みができるアプリがあるのだが、昨日今日とそれで少し遊んだりした。無料なのにあんなこともこんなこともワンタッチでできて、なんだか自分がすごい音楽をやっている人みたいな気持ちになった。気づいたら時間がたってて、気持ちはスクリレックスだったね。て、garagebandがすごいだけなのだが。少しDTMをやることに興味が向かっている。ゲームボーイを改造して色んな線をつなぎ、音楽をやったりするやつをやりたい。 楽器のビジュアルに対して多くの人が何か特定のイメージを持っている訳だけど、例えばこれがそもそもは楽器でないものを楽器にした時にどんな音楽が生まれるか、あるいは生もうとするか。そこにはそもそものイメージがない。イメージがないものをやる時に新しくイメージを生もうとしたり、ビジョンを改めて考えたりする必要に迫られるのではないか。抽象的な日記になった。

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