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無と

家の冷蔵庫の中の豆乳がダメになっていた。もう少し賞味期限スキルを持たなければ。それは多分色んなことに通ずる。 I must I must ばかり考えている気がするね。もう少し、得意を伸ばす方向にね、考えていきたいね。なにかのコーチみたいだけどさ。得意の大袈裟だが、地球という規模で考えれば、得意なことは特異なことなのかもしれない。何かが得意ということは何か突出しているということで、それは良くも悪くもなく別の何かからずれているということでもある。そのことをどう良くしていくか。悪くなることもある。


二元論に、良いか悪いか、良くしていこうという気持ちは細かなことに適用すると柔軟さを欠いて失敗することが多いが、こと、生きるくらいのスケールで考えるならこの気持ちは自分にとっては大切だ。先ずそれがないとディテールに過剰に集中し全体を見失ってしまう。そう、すぐに見失ってしまう。定期的に見直さなければ。Oh I must...


虚無やばかばかしさを恐れたり忌み嫌ったりするのではなくむしろ取り入れたり利用したりしていきたい。虚無に対して虚無を返し、何かがあるということになる!?  

これら、虚無、ばかばかしさを例えばバットマインドと呼ぶとして、これを嫌い追いつかれないように突っ走るというのは若き私の考えであった。しかし、これは私の場合うまくいかないということに気づいた。何度失敗するのか、まるでエジソン。しかし、私は電気を見つけたのである。取り入れるのだ。突っ走る私は日に日に私自身についていけなくなり、俺についてこれない僕が寝込んでしまう。なんだかナルシストみたいだが、というか、そうなのかもしれないのだが、、そんな感じになる。


この、取り入れるというのは人により考えがわかれるだろうな。そして、取り入れないの方がわかりやすい所があり、素敵な所があり。ただ私が試みるにしては眩しすぎ、ピュアすぎるようなところがある。そして突っ走る私に危うさを与えてしまう。是非はわかれるが、というか是非がわかれないものなんて本当はあまりないのだが、ざっくり、現代文明が良くないという意思を持ったとして、それではどうするか。政治家になるとかでも良いのだが、ここはあくまで何かを制作するということで考えると、良くないから抵抗するものを作るというのは一つ。良くないからそれと違う文明のものを作るというのも一つ。良くないが取り入れるというのが私が興味のあることである。なんだか複雑で少し胡散臭さがあるのだがそれでいい。最初の方の日記に書いたテクノレベルスのことを思いだしている。技術に対する反逆者たちという題の日記。


もう少し書きたいが、眠いのでやめる。

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