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8月, 2024の投稿を表示しています

マーカー

マーカーでキュッキュッキュッキュッやるのが楽しくて何を描く予定でもないのに紙などに向きあう。描けた後よりも描いている時が好きだな。これからどうなるのかを自分で決められる。紙に対してサディスティックな感覚だという考え方もできる。完成はしてしまえばもう、その後どうなるかということに手やペンが介入できなくなる。 ダイソーで白い水性マーカーを買ったんだけれど良い感じ。こんなに強い、いわゆる白色がでるペンがあるのを知りたかった。ペンと筆との違いは、太さを調節できるかどうかが大きい、が、ペンの方が身近で準備がいらない。どちらをとるか、どちらもとります。例えば大きな面を塗る時は絵の具と筆で、細かい部分はペンで、そんな風に使い分けてもいい。そうすると絵の具とペンでアマチュアな色のチグハグさが生まれるが、私は結構、これが好きなのだ。チグハグ、ムラ、カスレ、隣り合うインキと水彩。手法の混乱が調和すること。混乱、というのは何を指すのだろうか。 バイオリニスト、シタール、ギター、ベース、ドラム、カスタネットからなる6人組ロックバンドというのがあったら何か混乱している印象を受けるはずだ。それはなぜか、馴染みが無いからだ。馴染みがあるかないか、社会に多いか少ないかということが混乱という印象に大きな影響を及ぼしている。つまり、「普通」が混乱していると思われることはない。何か逸脱している時に混乱と呼ばれる可能性がでてくる。混ざって乱れる。赤一色に黄色や緑や色々な色が上書きされることで混乱の可能性がでてくる。何度も書いてゲシュタルト崩壊している、この混乱という語は肯定的に思うこともあれば否定的に思うこともある。 何が書きたいかわからなくなってきたが、私は調和というよりも良き混乱を目指していきたいと思っている。そっちの方が、向いている。

慣暑

もう慣れたし大したことないと思いながら外に出て、こんなもんかと思ったのもつかの間、歩けば歩くほど暑すぎる。涼しい歩き方とかないのだろうか。考えてみたが身体が温まる歩き方、体操などはあるが、身体を冷やす体操は無さそうだ。冷やすことに関しては水か氷か科学の力に頼るしか無いのか。冷えピタまでいかない、涼ピタを発明したら売れそうだと思う。16℃くらいの温度が続くシールみたいなものだ。私は首の後ろに貼りたい。お腹に貼るのは腹痛を起こしそうだからやめた方が良い。どうしても貼るというのなら止めはしませんが。発明というのはこういう、そんなこと考えてどうするのよと一蹴される空想からはじまることと、偶然なにかが起きてそれを発明と呼ぶことがあると思う。後者に関してはその人が発明したというよりは発見をしたのである。 電車に乗った。涼しい。電車が暑かったらこの国は地獄だと思う。駅のホームでサンドイッチを食べた。このサンドイッチというのも発明である。それもたかだかパンとパンの間に具を挟むというなんとも素朴なアイディアなのだが、これが美味しい。片手で食べれるという時代を超えた普遍的なインスタントさもある。紙とペンがあれば絵を描けるようにパンと具があればサンドイッチができる。私の好きなインスタントさだ。この敷居の低さは易々と跨ぐことができるがそこには無限の奥深さがある。こういう、シンプルな発明の方が、核反応とか、新しい金融システムとか頭の良い人にしかわからない発明よりも好きだと思う。わかる、から好きなのか。わかる、というか、関われると信じることができること。本当に、ボールから手を離すと下に落ちるくらいのことを見つけていきたい。目の前のものを写生することにその効果を見ることがある。適当に、ズボンだ、とか思っていたものの縫い目が目に入ってくる瞬間は絵を描いたりしないと私の場合は中々生まれてこない。勉強?も兼ねて写生するのは趣味でやりたい。物の構造、葉っぱの形。透けている色と透けない色。

酷暑

灼熱! 駅のベンチに座りこみ俯くと汗がカバンにこぼれ落ちた。 こうなると、暑いと思うよりも、これが普通だと思った方が良いのかもしれない。暑いということはごく普通のことなのだと。皆扇風機つきの洋服を来たりするようになる。地球温暖化...が、縄文時代は今よりこの島も暑かったという説を聞いたのだが、本当だろうか。長い長い期間をかけて冷たい地球と暑い地球を行ったり来たりしていると。それが本当だとしても夏が涼しくなる時までは生きられないのだが。いや、氷河期みたいな方が暑いよりもキツいか。ポカリを飲んだ。謎の日記。

俯瞰病

自分に酔っていないという自分に酔ってるのではと感じてしまい日記がストップ。これはこうである。しかし、こうとも考えられる...みたくありとあらゆる断定を恐れた保険を思いつく限りかけた文章ができる時に少年の頃に感じたエモさというエモさは薄まり、感情を傍観する何者かになって、それは果たして今の私に必要なものだろうか。分析する人推測する人がやる人でいることもできるのだが、やる人としてのあなたの気持ちが削がれるのであれば今はやる人でいようと思った。気持ちの勢いが活かせることがやりたい。走らなくなっても、運動神経的な人なのだとジタバタして思う。ただの、動物。 スクワットして疲れた。こういうことをやろう。一日一度息切れを。息切れなんて良い意味で使われないが、普段息切れしないから肝心な時に息切れするのではとも。青色が与える人の心理への効能もあるが、目を瞑っても骨があり、筋肉があり、脂肪があり、内臓があるということはその前にある。目を瞑れば色や形から逃げられるが、この、身体があるということからは離れられないのだ。そして意識があり、意識と手が絵や文を書く。手は便利な道具。足よりも使いやすい形になっている。指が長いんだな。 結果、前と変わり映えない日記になった。これで良いのだろうか。

モーニング

眠れずな朝。今日は台風が来るらしい。さっきちょっとだけ雨が降っていたのだけれど。暑くて、ジメジメ、嫌な日だろうか。良い絵描いたり美味しいもの食べたり、筋トレしたりすれば良い日になるかも。しよう。最近はマッキーとかポスカとか買ったのでひょひょいと描くことができて良い感じだ。絵の具よりこういう方が向いているかもしれない。とにかく、インスタントにパッとできることというのに自分は集中したい。前の日記に書いたっけな。頭がボケている。 日本語についていえば、文章を書くということは性別を問わず、貧富も問わず、問わず?普通、行為というものは色んなことが問われてしまうものだが、そういうことを大きく無視して、外出先、職場、学校、家、どんな家、マンション、アパート、刑務所などポータブルに色んな所で行われているのが文章を書くという行為なのである。この、ポータブルであるということも自分にとってやりやすいことだ。そしてその究極に近いものはこうしてiphoneで日記を書くということになる。自分に何もなくとも一日一日何か考えて書くことは試せるということを大切にしたいと思う。何日かサボってしまったのだけれど。 それにしても、自分が日本語を使っているということを意識したのはこうして日記を書くようになってからだ。そういう、意識していない当たり前になってしまったことにこれからも気づいていきたい。呼吸をしている、とかも良いな。やや、子どもっぽいのだが。だが、子どもは着眼点には冴えている。大人がうんうん悩んでいることを子どもがサラッと解決したりする話が好きだ。彼らは柔軟かつアナーキーな感覚を持っていると思う。3歳児は理屈に絡めとられた年長者に笑われつつも尊敬されているというアンビバレントな存在である。そして、自分の可能性に対する恐怖も抱いている。可能性がある・広がるということの嫌な面に歳を取ると鈍感になっていく。歳を取った。可能性を広げたい。四季が巡り続け何でもできるというには短い期限が自分の命にあるのは良いことだとも思う。不老不死とは言わず、300年生きられる薬があったら自分は飲むだろうか。最初の一人目にはならないだろうな。

アツい

あついは、暑い、アツいは、凄い、みたいな意味になること、中々、ネイティブな日本語にしか無い感覚なのだろう。何故かと問われればわからないわけだし。今日は暑い。他人に比べて汗をかく人な気がしている。代謝が良いということにしておこう。いや別に、暑くないねーと真夏でもすまし顔をして無汗でいる方がクールだと思っているが、健康としてはあまり良くないのかもしれない。そういう、不健康な格好良さっていうのもあるね。子どもの頃は毎日カップ麺食べていることが大人びて見えたもの。 これだけ暑いと何を食べるかに迷う。熱いものか冷たいものか、完全にラーメンを食べるつもりで入ったお店で冷やし中華を頼む日がでてきた。冷たい食べ物の誘惑は大きい。美味しいものって熱いか冷たいかな気がするな。ぬるいと美味しいとかもあるのだろうか。お弁当作りは温度のことを考えると思う。熱されてても冷たくても美味しい料理というものもある。ちょっと自分用に作ってみようかな。いや、めんどくさいか。。結構しっかり考えないとむしろお金がかかるというのもある。お弁当の絵を描くとかはいいかもしれない。タコさんウインナーとゆで卵を入れて。アンパンマンのポテトもいいな。汁物とか麺類は無理だな。 こうして文章を書くこと、私が思う自由というものにかなり近い気がする。私は散文を書くことで自由に近づくのかもしれない。何か創造性を発揮する機会が無かった日は特に意識して書いていきたい。どうしなきゃということは大体決まっていたりするものだが、それが薄いものというのは創造することが問われる。何もないからだ。私に必要なのは空き地や白紙の持っている余白なのだ。そこかしこが人が決めた決まりで埋め尽くされた後、ただの何もない、無目的の空き地というものは遊園地のような扱いになるのではないか。実際、そこを遊園地にしようという計画が立ったりするのだろうが、ただ、無目的にある空間としての輝きは無くなってしまう。遊園地では提供されるレジャーを楽しむが、空き地ではレジャーを生み出さねばならない。いや、ならない。といったような、義務感や堅苦しいものではなく、自ずと生み出そうとするはずだ。石を積んだり、穴を掘ったり、砂を集めたり、その中にあるのは、自分には確かに何かをする力というものがあるという意識なのだろう。今や身近に空き地はなくとも、その意識だけは持っておきたい。

ぴょこぴょこ描けて

絵が二枚できた。絵を描かない人にとって絵を描いた日は記念日になるのだが、私は毎日が記念日のような気持ちでいることにする。お腹空いてなぜだか遅くまでやっているご飯屋さんにいる。不思議な気持ち。あんまり人生を大事に思っていないことに気づく。これが、やけくそみたいな形でなくて、軽々として、色んな人に良い影響を与えたりできるようになったらいいな。宣言はできないのだが。兎に角わけのわからない思いつきの宣言をしがちだったのでそれには気をつけなければならない。そんな、気分です、そんな、感じでいれば良いのだ。そんな宣言をしたいような気分です。トマトハンバーグをロボットが持ってきて食べた。家路に着き朝の4時ごろ眠った。 目覚めるともうすぐ出発の時刻。近頃は混んでさえいなければ電車も好きになってきた。特に慣れない電車に乗る時は読めない景色を見ることになるから楽しい。トンネルを抜けると急に一面田んぼになったり、不思議な山がでてきたり。電線が揺れながら通り過ぎていくのも好きだ。空いている時や立って窓が目の前にある時など、窓の向こうの世界を見るようにしている。

指から飛び出てきたものを繋いでつじつまを合わせていく感覚、ラップっぽいのだろうか。昨日背筋沢山した。今日は腕を広げた腕立て伏せで、胸の筋トレ。0円趣味。 関心が薄いことの方がうまくやれるのは良くある不思議な現象だと思う。なんでも上手くやれるのに愛するものだけ上手くいかなかったり、その熱量が周りの空間との摩擦を生んでしまうのだろうか。それが続く時、そのまま摩擦を生みきるだろうか。それともなんとなく合わせていくのだろうか。その間のグレーな部分にあろうとしよう。なんでも、一生懸命向き合った分の何かが掴めるはずだね。というのは、何も根拠のない信仰のようなものなのかもしれないけど、それでいいのかもしれない。いや、いいと思う。思い切ったりすることで偏ることを恐れるが私は偏っていないという考えは傲慢であり、世界の平均値みたいなものは数字としてだせるかもしれないが世界的に平均な人なんてどこにもいないし、それなら自分もそうでないということ。この、宙ぶらりんにされた気持ちはいつまでも抱えて生活していかねばならないのだろう。それを悪いことと考えず、ただそういうものとして受け入れていく。 ただ、寄る辺はいくつか必要だと思っている。何もかもからずれて、ただボーっとしていることなんて誰でも難しい。絵を描いた、できた、だからなんだというのもあるかもしれないが、そういうこと一つ一つを大切にすることが気持ちの寄る辺を増やしていくことにつながるはずだ。なんだか真面目な日記になってしまった。明日は腹筋をする。その前に一枚絵を描く。

ふともも2

情けないことに昨日よりも太ももが痛い。頭まで痛いような気がしてきた。これは最近の私に足りなかったものの一つは筋肉だな。これからトレーニングをしよう。脚とか背筋とか、実用的な部分をメインで鍛える。ムキムキの腕とかではなく。電車がグラグラ揺れた時も微動だにしない人になりたいな。当面の目標。あとは柔軟体操も。人生で一度は開脚180度なんてやってみたい。踊りにも通ずるしね。 兎に角、これからやることはミニマルにできることに集中していく。大きな敷地が必要だったり、沢山の予算が必要だったり、そういうことはやろうとしないということが大切だ。きっとそれはもっと向いている人や、環境が整った人がやってくれる。それらを見たりすることには関心があるが、自分がやるというのは想像もつかない。空き地で、特に大したものもないのにどれだけ楽しめるかを試す子どものようにいたい。それをもっとやりたいし、良くしていきたい。向上心はここに、ミニマルにできることというものに集中させる。 ベニスビーチには、踊ってスケートボードして歌って絵を描くみたいな人、結構いた。これは、字面だけ見ると気が散っている人というか、なんか半端な人みたく見えるかもしれないのだけれど、単純にこの人たちは自分が試せる可能性を試したいのだ。踊るのもスケートボードも歌うのも絵を描くのもお金があんまりかからない。特に何ら後ろ盾もなく、貧乏だが何かをしたいと思っている地元の人にとって、ミニマルに楽しめる趣味や表現というのは夢があるし、親しみやすいものだ。 そして、今の私も彼らと似ている状況というわけだ。何にもない。あの時教わったことを咀嚼するタイミングというわけだ。スクワットをやりますみたいなのも無料でできる。この、無料感に今あらゆる人がハマっているが、その多くは液晶を見ることだ。もう少しアナログな無料感を私を推進していきたいと思っている。電車が駅ついた。さささ、帰ったら筋トレしたり絵描いたりしないとですな

ふともも

太ももが痛い。昨日、スクワットを100回したからだ。何故か急にやってみようと思ったのであった。鍛えているに「こした」ことはないと思ったのだ。この、「こした」感に囚われて生活している人は沢山いるのだろう。そんな人にシンパシーだ。絵を描きたいがどんな絵を描きたいのかはわからずデッサンの本を買ってきて眺め続けるというなんともいえない活動や、ギターを手にするが弾きたいものが思いつかずメトロノームに合わせていじくりまわすという誰も知らない遊びがはじまるのだ、そこにあるのはほとんど、リズム感がないよりはあるにこしたことはないという考えだ。昔の私なのだが。そして確かに、そのような消極的向上心であれ持つにこしたことは無いのだが、確固たるビジョンやイメージを持って羽ばたいていく人に比べると遅々として何事も進まない。羽ばたけても雀のように、飛んでは休み、飛んでは休み、カラスにビビり、鳶を見上げる。ああ、大空よ。私に足りないものは何なのでしょうか。 それはきっと思っていたよりも具体的なものだ。

でんしゃ

 電車に乗る時間が長いのでこの時間を新しい音楽を聴くことや、本を読むことなど、座れたら日記を書くことに費やしている。乗り換えの時に大抵座れるので、そこで日記時間がはじまる。日本ですごいダンスを踊る人がいて、その人の動画を見た。気づいたけれど、ストリートダンスにとって大切なことの一つは、太いズボンを履くことだ。動きやすいし、裾がパタパタして華やかに見える。バレエみたく、身体のラインがはっきり見えた方が良いものはピチッとした方が良いという気がする。実際、バレエを見たことはないのだが。 帰りの電車。脇腹を蚊に刺されたのがじわじわかゆい。字面だけでかゆそうだ。こないだ芝生に転がっていた時だろうな。ちょこちょこかきながら音楽を聴いて書いている。唐突だけれど、この一生はミニマルなことをやるのに専念したい。見るのは映画でも、パレードでも楽しみたいが、やるのは、関われるのは、できない。ペンを持たせるとアツい人や、喋ると面白い人や、そういうことに集中していく。というか、集中していかざるを得ないのだと思う。

ていぎ

夏バテが続いている。今は布団の上で横になっているところ。さっき、茄子と豚肉の炒め物定食を食べた。最近食が細っているが、食べないとどんどん食べれなくなるのでね。食べよう。 ここまで書いて二時間ほど眠ってしまった。一番気持ちの良い眠り方だ。クーラーをガンガンに効かせて、布団にくるまれた無気力なサナギと化した自分に嫌気がさすが、焦れば焦るほどに無気力であるということを自覚させられるだけなのでやめておく。ゴロゴロする幸せに意識を向ければいい。自炊もめんどくさいので外食。もしくはパンとか弁当とか買って食べるか。私は結構、食べ歩きみたいなのが好きだ。横浜の中華街とかで。落ち着きが無いのだろう。落ち着きが無いというのは悪いこととされるが、果たしてどうなのか。思うに日本は他国と比べて落ち着き度がかなり高い国のように見える。だからなんだ、というのははいのだが、ずっと思っていることだ。思考のゴミ箱だ。 駅に向かった。今まで何回、駅という場所に来て、これから何回、駅という場所に向かうのだろう。小学生の算数の問題がここに。一生において駅に来た回数が多い人と少ない人がいるだろうな。車生活の人々なんかは学生以来電車なんて使ったことない人もいるそうだし。なんか、それはすごく楽しそうだ。マイペースにいけるというか。ただ、怖いのは渋滞だな。 書く文はこんな感じだが、読む文としては、名だたる哲学者の本だったり、ちょいと難解な文が好きだ。全くわからないのでなく、半分くらい内容がわかるような文。私は、考えを固める為に文を読むのでなく、考えを揺らす為に文を読んでいると思う。考えが揺れてまとまらなくなるが、分け隔てなく他者の文を読もうとしているということでもある。しかし固まる為に読みたいという気持ちもわかる。固まる為に読む、知る、聞くなどする場合には、何に触れるかを絞る必要がある。美容を学びたいのであれば、美容を学ぶ人、関心がある人や教える人、本、などなどだが、そもそも美容などいらないという人や文に触れるとなると固まりが解かれたり、意識が足踏みしたりするようになる。ここでいう美容という単語は他の言葉と入れ替えてもいい。芸術でも絵でも音楽でも仕事でも。定義が狭い言葉と広い言葉とあって、狭い言葉について悩む人は少ないが広い言葉について悩む人は非常に多い。私もその一人である。これは爪楊枝である、という考えが人による...