自分に酔っていないという自分に酔ってるのではと感じてしまい日記がストップ。これはこうである。しかし、こうとも考えられる...みたくありとあらゆる断定を恐れた保険を思いつく限りかけた文章ができる時に少年の頃に感じたエモさというエモさは薄まり、感情を傍観する何者かになって、それは果たして今の私に必要なものだろうか。分析する人推測する人がやる人でいることもできるのだが、やる人としてのあなたの気持ちが削がれるのであれば今はやる人でいようと思った。気持ちの勢いが活かせることがやりたい。走らなくなっても、運動神経的な人なのだとジタバタして思う。ただの、動物。
スクワットして疲れた。こういうことをやろう。一日一度息切れを。息切れなんて良い意味で使われないが、普段息切れしないから肝心な時に息切れするのではとも。青色が与える人の心理への効能もあるが、目を瞑っても骨があり、筋肉があり、脂肪があり、内臓があるということはその前にある。目を瞑れば色や形から逃げられるが、この、身体があるということからは離れられないのだ。そして意識があり、意識と手が絵や文を書く。手は便利な道具。足よりも使いやすい形になっている。指が長いんだな。 結果、前と変わり映えない日記になった。これで良いのだろうか。
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