あついは、暑い、アツいは、凄い、みたいな意味になること、中々、ネイティブな日本語にしか無い感覚なのだろう。何故かと問われればわからないわけだし。今日は暑い。他人に比べて汗をかく人な気がしている。代謝が良いということにしておこう。いや別に、暑くないねーと真夏でもすまし顔をして無汗でいる方がクールだと思っているが、健康としてはあまり良くないのかもしれない。そういう、不健康な格好良さっていうのもあるね。子どもの頃は毎日カップ麺食べていることが大人びて見えたもの。
これだけ暑いと何を食べるかに迷う。熱いものか冷たいものか、完全にラーメンを食べるつもりで入ったお店で冷やし中華を頼む日がでてきた。冷たい食べ物の誘惑は大きい。美味しいものって熱いか冷たいかな気がするな。ぬるいと美味しいとかもあるのだろうか。お弁当作りは温度のことを考えると思う。熱されてても冷たくても美味しい料理というものもある。ちょっと自分用に作ってみようかな。いや、めんどくさいか。。結構しっかり考えないとむしろお金がかかるというのもある。お弁当の絵を描くとかはいいかもしれない。タコさんウインナーとゆで卵を入れて。アンパンマンのポテトもいいな。汁物とか麺類は無理だな。
こうして文章を書くこと、私が思う自由というものにかなり近い気がする。私は散文を書くことで自由に近づくのかもしれない。何か創造性を発揮する機会が無かった日は特に意識して書いていきたい。どうしなきゃということは大体決まっていたりするものだが、それが薄いものというのは創造することが問われる。何もないからだ。私に必要なのは空き地や白紙の持っている余白なのだ。そこかしこが人が決めた決まりで埋め尽くされた後、ただの何もない、無目的の空き地というものは遊園地のような扱いになるのではないか。実際、そこを遊園地にしようという計画が立ったりするのだろうが、ただ、無目的にある空間としての輝きは無くなってしまう。遊園地では提供されるレジャーを楽しむが、空き地ではレジャーを生み出さねばならない。いや、ならない。といったような、義務感や堅苦しいものではなく、自ずと生み出そうとするはずだ。石を積んだり、穴を掘ったり、砂を集めたり、その中にあるのは、自分には確かに何かをする力というものがあるという意識なのだろう。今や身近に空き地はなくとも、その意識だけは持っておきたい。
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