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モーニング

眠れずな朝。今日は台風が来るらしい。さっきちょっとだけ雨が降っていたのだけれど。暑くて、ジメジメ、嫌な日だろうか。良い絵描いたり美味しいもの食べたり、筋トレしたりすれば良い日になるかも。しよう。最近はマッキーとかポスカとか買ったのでひょひょいと描くことができて良い感じだ。絵の具よりこういう方が向いているかもしれない。とにかく、インスタントにパッとできることというのに自分は集中したい。前の日記に書いたっけな。頭がボケている。


日本語についていえば、文章を書くということは性別を問わず、貧富も問わず、問わず?普通、行為というものは色んなことが問われてしまうものだが、そういうことを大きく無視して、外出先、職場、学校、家、どんな家、マンション、アパート、刑務所などポータブルに色んな所で行われているのが文章を書くという行為なのである。この、ポータブルであるということも自分にとってやりやすいことだ。そしてその究極に近いものはこうしてiphoneで日記を書くということになる。自分に何もなくとも一日一日何か考えて書くことは試せるということを大切にしたいと思う。何日かサボってしまったのだけれど。



それにしても、自分が日本語を使っているということを意識したのはこうして日記を書くようになってからだ。そういう、意識していない当たり前になってしまったことにこれからも気づいていきたい。呼吸をしている、とかも良いな。やや、子どもっぽいのだが。だが、子どもは着眼点には冴えている。大人がうんうん悩んでいることを子どもがサラッと解決したりする話が好きだ。彼らは柔軟かつアナーキーな感覚を持っていると思う。3歳児は理屈に絡めとられた年長者に笑われつつも尊敬されているというアンビバレントな存在である。そして、自分の可能性に対する恐怖も抱いている。可能性がある・広がるということの嫌な面に歳を取ると鈍感になっていく。歳を取った。可能性を広げたい。四季が巡り続け何でもできるというには短い期限が自分の命にあるのは良いことだとも思う。不老不死とは言わず、300年生きられる薬があったら自分は飲むだろうか。最初の一人目にはならないだろうな。

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