スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

10月, 2023の投稿を表示しています

昨日

久しぶりにお菓子を沢山食べて吐いてしまった。何も意識していなかったが定期的に吐いてしまっている。一年で一回も吐かなかったこと無い。二ヶ月に一回は絶対に吐くな。子どもの時も不思議なタイミングで吐いてしまっていたし、大人になっても、酔っ払って(これが一番の原因だが)とか、食べ過ぎてとか、大人になったのかちゃんとトイレで。なぜか絶対に太らないシステムに身体がなっている。あんまり誰も見てないとはいえ、こういうことを書くのは迷う。なぜなのか、弱いところや柔らかいところは隠さないといけないという社会の意識にどこかでのまれてしまっているのかもしれない。全くのまれていないつもりなのだが。知ってないといけない、強くないといけない、ちゃんと調べて自分で解決できないといけない、人の種類(書ききれない思いつくこと全部)に関わらずこうした強迫観念を他人に、そして何よりも自分に感じる時がある。こうしては、ああしては、いけない。いけないということは様々な人の共通点のふりをして語られるが、こうした方がいいということは各々の判断に任せられているのである。 疲れている。胃に優しいものを食べよう。人に優しく、自分のことは投げやりになっている気がする。自分が生活しているなんてどうでもいいと思っているのだろう。自分のことこそが一番の他人ごとだ。どこかでしらけてしまっている自分がいつもいた。 いた。ということにして過去のことにしてしまおう。

贅沢な

情けなくとも前に進んでこう。絵は小さいのばっかり作る、持ち運びやすいように。ポータブルかつ個人的にできることというのは今のところ自分にとってポイントだ。諦めようもなくなるしね。 じいっと味噌汁を茹でる手鍋を見ていたら、こういうのを描くのも良いかなと思ってきた。静物画というのだろうか。キッチンの絵や部屋の一部。踊りと絡めた絵と結びついてるか怪しいが、拡大解釈。すり減った靴の絵もいいね。贅沢な話、昔は絵を描くということがそんなに好きでなく、そういう授業があっても鉛筆を転がしたり、練り消しで小さな人間を作っていたりしてしまっていたのだが、おそらく、じっくり何かに取り組むということが苦手だったのだろう。派手に反射したかったのだ。今だにこうして出来上がっていく文章にもその雰囲気が滲み出ている。最後はこう締めるとか、途中でこういう文章を挟むとか、そんなことは考える余地もなく、思いつくまま積み上げた積み木の城のような言葉の塊ができる。頼まれたものなので、しっかり書かなきゃいけないとかだと、また違うとも思うのだけれど。ただ、これもしっかり書いていないというわけではない。「ノリ」も許可するという文たち。 こうも世相が暗くなると、私にとって当たり前と思っていたものがどういうもので、それが恵まれていることだと気づく。何かを見て、それをゆっくり描くことができるというのは、小さいことに感じるが、誰でもそれができる状況なわけでなく、感謝しなければいけないことなのだと思う。小さいながらも、力強くありたいな。年甲斐も何もなく目標を持っていないと。武器に兵器に使われる鉄で見たことない楽器を作って欲しいぜ

悶々人

もっと色々考えなきゃなと考えた時はたくさんあったけれど、色々は全く小さな器で、入れられるものは非常に少ない。こぼれ落ちたたくさんの考えがあることは忘れないでいよう。 制作だが、はっきり言って停滞。なんだかんだ、2016年から続く謎のスタンス(キャラクターの4コマやZINEなんかがあり、キャラクター全然関係ないだろみたいな絵などがある)で良いのではないかと思ってきている。そこに言葉をつけることでキャラクターとその他の絵を結びつける。そこに踊りが絡んでくる。抽象的なことばっかでなく、具体的に考えていかねば。あと、絵を描くのは死ぬまでやる。なんて書くと、おぉう、気合い入ってますねぇな感じだが、特に誰かがいないとできないでなく、遅いペースでもブランクがあってもできることなので、なんというか、腐れ縁というか、付き合っていかねばならないものとして考える。こういうものがあるってありがたいことなのかな。「ある」というのをなるだけ身近でミニマルなものにしていきたい。そこに幸福を感じたいという強い気持ちがある。他人より多くのものを持っていないと不安だ、とか、そういう不安を感じないこと。ただ、それは多くのものを持つことを否定しないし、なんならそういうことを楽しむこととも両立できるとも思う。 執着したいものは何か。自分で考えること、とか、絵を描くこと、とかだろうか。絵という物質よりも、絵を描くこと、に思い入れがあるのだろうか。自分で考えるというのはどういうことか。私は出会った色んな人の姿勢や考えや、勉強して学んだこと、もしくは勉強しないことで学んだこと、元々は外からきたもの、そのつぎはぎを自分の考えと呼んでいる。私はパッチワークのようで縫い目は非常に多い。高級な素材からボロ布までつなぎ合わされているのである。〇〇志向というものがない。遥か昔はあったような気もするが、とっくに見失ってしまった。そして、見失わなければ今がない以上、見失なったことに感謝をしなければ。ありがとうございます。 生活と活動の境目は難しい。何歳までに、とか、誰某さんにとか、そういう意識が限りなく薄かったと思う。それが良いことなのか失敗なのかはわからないが、事実ただ日々は続いていて、なにかやったりする。世の中はどんどん変わっていくが私は何か変わっただろうか。なにかもっとやらなければという欲が満たされたことは多くなく、悶々と...

ブルースデイ

毎年このくらいの季節になると、寒いという感覚があったことを思いだす。上着を着るかどうかで迷うことはついこないだまでなかった。 雨の中を傘さして走った。大人になると走ることがあまりなく、久々に息切れをした。でもなにか、頭がスッキリするような感じもある。 意識せずにはいられないこと、昨日今日と恐ろしいニュースが続いている。今、朝の9時過ぎで、なに書くか迷っているところ。 改行の間に22時に。働いた。絵でできることできないこと、生活でできることできないこと、考えていくことはなにか、絵じゃこういうことできないな、あれも無理だなと、なんか夢のない考えになってしまうのだけれど、その可能性を広く感じすぎた反動もまた無力感や苛々だったので、今のとこ、ちゃんとわけておこうと思う。そのうち、できないと思っていたこともできるようになりたい。 文章っていうのはなにか深刻そうな見た目をしている。CDの時代の歌詞カードの見た目と、曲の印象はしばしばかけ離れていた。街角に貼られる長文の怪文書に、鬼気迫る雰囲気を感じてたじろいだりするが、案外書いている方は、ホッホホイみたいな感じのこともあったりするのだろうと、webサイトの時代から怪ブログのようなものを続けて思う。この、怪しい感じは好きだな。外を向いたもので、意味がわかるものでなければならないということでこぼれ落ちるものがあると思う。それは伝達の為には仕方ないが、万事その調子でいるとなにか段々と歯切れが悪くなり悶々としてしまう。しかしその悶々の中からしか掴めないこともあり、それをわかりたく日記で悶々を削っていく感じだ。具体的には、実はこういうことがやりたかった、とか、そういうことがわかったりする。 今日は音楽はずっとSpotifyでブルースを聴いていた。というのも、またギターやって、友人とセッションするのね。ブルースのコード進行で合わせられたら良いんじゃないかということになった。セッションの、バンドではないが個人でもないという集団感が今気になる。誰かが来なくてもできる。誰かが来てもできる。そういう柔軟さを含んだものをやりたい。これならできそう、という敷居をちょこちょこ越えていき、それが絵になったり自分の思い出になったり世の中のなにかになったりすれば良いと思う。私は大作主義でないのだろう。小品を多めに、バレエもオペラも作れず、4コマや小さな筆跡を集...

ちいさなわからなさ

自分で絵とか描いてみて、うわ、嫌、と思うのが嫌で色々やってみて、かっこよくてかっこよくてかっこいいとか、かわいくてかわいくてかわいいとか、そういうことが自分からでてきたものとして考えると嘘みたいでそれも嫌で色々やっている時間の中にいるんだろうな。ちゃんとわかりにくい力を強くやっていかねば。 わかりにくさは、人によっては関わりづらく感じるが、実際は、わかりやすくあることがわかりやすいようにそれをそう見せたり修正しているように感じる。過去に抱いた信念の軌道に合わせてか、今の時代の雰囲気に合わせてか、自分でも他人でも、主観でも客観でもなくぽかんと浮かんだら不思議になってしまったもの。そんなものができたらな

味噌汁

もやしと玉ねぎの味噌汁を温めながら書く。なんとなく弱火で。IHヒーターの目盛りが160℃を指す。もしかすると中火と呼ぶのかもしれないが。 味噌汁とサバの塩焼き、お米を食べたらちゃんと洗い物しよう。洗い物、掃除、なにはともあれやった方がいいことか。洗い物はよほど疲れてたりしないとあれだけど、掃除はいつも難しい。心のどこかに完璧主義なキャラクターが潜んでいて、それがでてくるからかもしれない。自分のできたことが58点、とか、そういうことを認めていくことだ。30点も0点も一緒というクオリティにこだわるオールオアナッシングの過激派であるこのキャラクターが無気力を呼び込む。赤点と、そもそもやらないというのは違うが、ただ、赤点は力不足に対して、そもそもやらないのは、やればできたのだという想像の余地があり、それがその通りなのか間違いなのか本人にもわからない所があるので、そこに頼りたくなる気持ちは人の中にある。 iPhoneを置きご飯を食べた。しばらく粗食をしてみよう。もっと刺激じゃなくて、薄味になにか感じられるようにね。群青色を青色とざっくり言い切るこの感覚から、進歩できたらいいな。ただ、刺激に強くなるというのも一つの進歩ではあるんだ。人ごみで眩暈もしなければ、まあ細かいことは気にするなという風に心を処することができるようになっていること。良く言えばタフになり、悪くすれば麻痺。麻痺したり細かくいたり、行きつ戻りつすることをこなしていきたい。さっさとやればいいことと、もう何年でも考えていていいことと。仮にでも答えをだした方がいいことと、答えのでなさを味わうくらいのもの。せっかちさとじっくりさが同時に問われ続けている感触が生活の中にある。まだまだ、へた。 絵が中々描けないでいる。近道を見つけられないくせに見つけようとしたりする要領の悪さから言葉が生まれている。しかし、もし自分の中に非効率さがなければ書き得ない日記だとも思うので、こつを得ないこのあり方が嫌だが、良い部分もある。もう途方もない道を歩いていくしかないと心を決めると、少し楽になってきた。しばらく、文章を書かないうちに、頭に言葉が埋まっていたようで、するする書いていけることに不思議な感覚を覚えている。また明日もこれからも書こう。

横の日

急に涼しくなったのもあるのか、疲れていたのか昼過ぎまで眠り、夕方までずっと横になっていた。立ち上がることがこんなに難しいのは久々だった。なんかいろいろ億劫だし。お腹が鳴り始める。お腹を触ると肋骨が張っている。やけにスリムだ。こういう時は大抵、お腹が空いたという理由で立ち上がる。ほぼ野生動物の生活。あれだけやっていた自炊も2ヶ月くらいやっていない。久しぶりにやろうかなと思い、家の扉を開け、近くのスーパーに向かったのだが、スーパーの自動ドアの前で う と固まった。めんどくさい。やっぱり吉野家にしようと吉野家へ向かい店の前まで着いたのだが、ここでまたしても う が現れた。めんどくさい。この、めんどくさいは私の子ども時代からの長年の強敵である。時にじわじわと気力を奪い、時にまさかの不意うちをくらう。  う の野生小動物と化してしまった私は、吉野家に行くかスーパーで食材を買い自炊をするかで少しの間迷ったが、何か自炊とはいわずともサッとできるものをスーパーで買い、それを食べようというのが次に浮かんだアイディアだった。そこで目をつけたのが牛乳をかけて食べるシリアルとお湯に溶かすタイプのコーンポタージュだ。 喉もカラカラに渇き、野菜不足なのも気になる。2リットルの水と野菜ジュースも。ごくごく水を飲む。ぷはぁと酒飲みのような声がでてしまう。本当に喉が渇いた時には、水が一番美味しいと思う。それか、ドラッグストアに売っている経口補水液という謎の液体。 香ばしグラノーラ アーモンド&チョコクランチとチョコワを同じくらいの量、皿の上に開け、浸るほど牛乳を注ぎ、食べた。うーん、センチメンタルな味。や、家庭の味といった感じもある。食べ始めて気づいたが、香ばしグラノーラのパッケージには、「素材感じる大人の味わい」と書いてあるのに対して、一方チョコワはやや子どもっぽい味わいで、計らずして子どものような大人になってしまっている私には非常にマッチするシリアルの組み合わせだ。 チョコワは名前も可愛くていい。チョコの輪っかでチョコワって!そのまんまが持つ永遠の普遍性。バットマン、キャットウーマン、スパイダーマン。名前をつけるということ、もともと名前の数が少ない時代の方が明らかにやりやすいな。今のようにこれだけ名詞が氾濫している状態で名前をつける人たちは何か工夫したりずらしたり、違う言語に翻訳したりす...

踊りを翻訳

色々書いたけどふくらはぎがむくんでいるとか、そんなことばっかりであまり面白くなく、消した。面白くないというのは誰にとってかというと、自分にとって。最近、自分の中からでてくる言葉が自分にとってありきたりの、面白くないものになってきていることに気づく。衰えか?いや、そもそもこのところ文章を書くということをしていなかったんだった。リハビリリハビリ。なにか良いと思った詩をノートに書き写したりした方が良いかもしれない。そういう場合は、デジタルの日記に書くというのはなんか違うね。お気に入りのノートにお気に入りのペンで、なんならインクまでこだわったりして書き写してみたい。それ、自分の力でもなんでもないけどな。他人が書いた詩をメーカーが作ったノートにメーカーが作ったペンで書く。私の労力は、その詩を見つけて何かを感じたということと、手指を動かしてペンで文字をそのまま書いたというだけになる。レディメイドの世界の中で私はもがく。 久々にこんなに音楽を聴いている。というか、今までで一番聴いている。振り返ると中高生の頃が二番目に音楽を(意識して)聴いていた。耳に触れるものは全てが新しく、それは共感ではなく開発していくという感じだった。そのうちに共感したりするようにもなったのだが。 私の音楽の聴き方は少し人工知能っぽかったと思う。深く掘り下げたいというよりは幅広く網羅したいというミーハーな欲求に突き動かされ、その時はまだ沢山あったCDのレンタルショップや図書館に足繁く通い、一週間に借りられる限界まで借り、パソコンに入れてiPodに入れる。どう借りるか?ロックのコーナーから一枚、ジャズのコーナーから一枚、ヒップホップのこの人は名前を聞いたことがあるから借りておく。レゲエも最近気になる。いや、遡ってバッハとか、クラシック音楽も聴いた方が良いのか!? なんの、誰にとっての「!?」なのかもわからず、そして今もあまりかわっていない。変わったことといえば、CDをレンタルしたり図書館に行かなくなったりしたことだが、この、私という主体の無さとは言わずとも、薄さというのは巡り巡って個性の形になってきた感がある。自分のアイデンティティを形成した音楽、他にも、洋服とか、美術、スポーツなど、そういった感覚は薄く、単に好きなものだとか、聴いてた、やってたとか、そういうものであって、その瞬間に啓示を受けたというような出来...

iPhoneから

暫く日記の更新が止まっていた。特に何かのプロモーションになるでもなく、かっこよくも素敵なものでもなく、ただ個人的なことがぽつんと書いてあるこれ、意義を見出せなくなる時が時々あった。今もそれはわからないけれど、書くとすっきりしたり、何か残せたような、何かやった気になるようなところもあり、そのことにまた頼っていきたい。充実を自分で発明していく。 iPhoneいじっている時間を良いものにしていきたいなと思った。どうせ私はいじるのだから。