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踊りを翻訳

色々書いたけどふくらはぎがむくんでいるとか、そんなことばっかりであまり面白くなく、消した。面白くないというのは誰にとってかというと、自分にとって。最近、自分の中からでてくる言葉が自分にとってありきたりの、面白くないものになってきていることに気づく。衰えか?いや、そもそもこのところ文章を書くということをしていなかったんだった。リハビリリハビリ。なにか良いと思った詩をノートに書き写したりした方が良いかもしれない。そういう場合は、デジタルの日記に書くというのはなんか違うね。お気に入りのノートにお気に入りのペンで、なんならインクまでこだわったりして書き写してみたい。それ、自分の力でもなんでもないけどな。他人が書いた詩をメーカーが作ったノートにメーカーが作ったペンで書く。私の労力は、その詩を見つけて何かを感じたということと、手指を動かしてペンで文字をそのまま書いたというだけになる。レディメイドの世界の中で私はもがく。


久々にこんなに音楽を聴いている。というか、今までで一番聴いている。振り返ると中高生の頃が二番目に音楽を(意識して)聴いていた。耳に触れるものは全てが新しく、それは共感ではなく開発していくという感じだった。そのうちに共感したりするようにもなったのだが。


私の音楽の聴き方は少し人工知能っぽかったと思う。深く掘り下げたいというよりは幅広く網羅したいというミーハーな欲求に突き動かされ、その時はまだ沢山あったCDのレンタルショップや図書館に足繁く通い、一週間に借りられる限界まで借り、パソコンに入れてiPodに入れる。どう借りるか?ロックのコーナーから一枚、ジャズのコーナーから一枚、ヒップホップのこの人は名前を聞いたことがあるから借りておく。レゲエも最近気になる。いや、遡ってバッハとか、クラシック音楽も聴いた方が良いのか!?


なんの、誰にとっての「!?」なのかもわからず、そして今もあまりかわっていない。変わったことといえば、CDをレンタルしたり図書館に行かなくなったりしたことだが、この、私という主体の無さとは言わずとも、薄さというのは巡り巡って個性の形になってきた感がある。自分のアイデンティティを形成した音楽、他にも、洋服とか、美術、スポーツなど、そういった感覚は薄く、単に好きなものだとか、聴いてた、やってたとか、そういうものであって、その瞬間に啓示を受けたというような出来事があったかというと思い出せない。思い出せないということは、無かったのだろう。ただ、喜怒哀楽はあり、なんとなく淡々と日をまたいでいたと思う。


そんなこんなで?どんなで?  音楽を聴くというのは中高生の思い出やなんかが薄くなっていくにつれて、逆にその時好きだった曲を聴いたりすることが多く、そうすることによって自分をつなぎとめていたというか、社会的にいえばセンチメンタルに浸る時間というのが私にとって大事な時間になっていたりしたのだが、ここに来てまた開発するという意識がきている。全く知らない、生涯かけても聴ききれない世の中にある曲群を聴こうとしないことはもったいない気がしてきたのだ。今日も今日とて、好奇心旺盛の節操のない消費者がSpotifyにやってきた。まぁなんというか、デカい子どもですね。


話が逸れてしまった。私は絵を描いていると名乗るが、いつも絵よりも音楽のことや、生活のことの割合が多くなってしまう。無いものねだりか、必要に迫られてか。絵との距離感にはいつも迷っていた。一分一秒も無駄にしてはいけないとせかせか作ったり、ちゃんと理由や理屈がないといけないと難しい本を読んだり、「私の作家としてのコンセプト」なんてノートを作って4ページくらい書いて行き詰まり放り出したり、反動で酒飲んでひたすらボーッとしたりしながら。ひたすら寝てたり(一分一秒どころか、一日一週無駄にしている)。


唐突だが私は、表現のフラットな面が好きなのだと思う。紙とペンがあることの可能性や、人一人が考えたことを文章にした時の力や、異国のリズムに身体がひとりでに踊りだすこと。この日記はお金があってもなくても書けるという面ではフラットだが、言語という意味でフラットではない。翻訳をすればフラットなのだろうか。しかし、意味がわからなければ意味がわからないのだし、、
何が書きたいのかわからなくなってきた。これはアンチな意味ではなく、意味というものがどう逆立ちしてもその意味でしかないということを自分は避けたがっているような感じだ。意味が色を纏っていたり、匂いを発したり、音が鳴ったりすること。これは文章でやることは難しい気がするが、例えば、この盛り付けにはこういう意味があるんですという和食は手に取れる食器があり、その上に料理があり、香りがして、実際食べられるもので、それが美味しかったりする。その時に、盛り付けにある意味というのはメインではなくてあくまで補助的なことであったりするだろう。そこには、意味がわかる人だけでなく、意味からあぶれた人も味わったり楽しんだりできる余地がある。そして、その人が感じる別の意味も生まれ... 変な例えで逆にわかりにくくなっているかもしれないが、このことが気になる。


話がうまくなくすぐ飛躍するが、私はこのことと踊りを結びつけて作品を作っていきたいと思っている。良く計画倒れをしてしまうが、それは自分にとって自然でないことだったからなのだと気づく。で、これはほんと。

コメント

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2024年3月7日

3月最初の日記。期間が空いてしまった。今日は目覚めるとひどい2日酔いだった。近所のスーパーで経口補水液と野菜ジュース、バナナを買って、イートインコーナーで飲み食いした。1日初めの飲み物1口目。ぷはぁと声がでる。あまり気にしていないが、座る時にどっこらせと言うお爺さんになる要素が私にはある。そのまま色んな食材買って自炊。2日酔いというのは、普段思わないことを思うようにできているのか、あぁ、なんでも、丁寧に袋やパッケージに入れられて売られている。もやしの袋然り、納豆は3個入りセットで丁寧に梱包されていて、キチっと積み上げられている。どの梱包も寸分違わず、目に見える違う部分としたら賞味期限の印刷くらい。奥の方に手を伸ばし1番賞味期限が遠い納豆を買った。アンディ・ウォーホルのキャンベルスープ缶の作品を思い出す。あの、本気だけど皮肉でもあるような良くわからないあり方は結構好きだ。なんとなく、ロックの時代の作品という感じがする。華々しさと自分自身や自分が生きている文明に対する自虐が同居している。だからか、ロック音楽のアルバムというものは1曲目で車の自慢をしたかと思えば、2曲目ではダメ人間のバラードになったりしていて、そういう表現の為ピエロ役を買ってでるような所も結構好きだった。まぁ、そうでない人が沢山いるのもわかるけれど、根本的に自分を下げて矛盾を楽しむユーモアがあって、そういう所に今また惹かれはじめている。甲本ヒロトの良さとラップスターの良さは結構違う気がする。と、詳しくないが今のアメリカのラッパーであまり伝統的な感じがしない人、例えばLil uzi vertの曲を聴いたりすると、も、もしかしてふざけているのでしょうかとも感じるので、文化が受け入れられ成熟してくるとちょっとおちゃらける感じの人が求められてくるのかもしれない。 暫く書いてないと指筆がはかどらない。やはりなるべく毎日書くべきだな。無料でできるのだし、何か発見をするのも文章を書いている時が多い。 唐突なコラージュみたいな文章だ。「自分にとって」絵を描くのは、やっぱり何かの為って所がもっとあった方が良いんじゃないかと思っている。今まで、絵を描くことには理由がいる→絵を描くことには理由はいらない という思考の経緯を辿っていたのだが、ここにきて違う形で当初の意識にまた戻った。違う形とは何かを考えるのなら、元々どういう形で...

つづき

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