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横の日

急に涼しくなったのもあるのか、疲れていたのか昼過ぎまで眠り、夕方までずっと横になっていた。立ち上がることがこんなに難しいのは久々だった。なんかいろいろ億劫だし。お腹が鳴り始める。お腹を触ると肋骨が張っている。やけにスリムだ。こういう時は大抵、お腹が空いたという理由で立ち上がる。ほぼ野生動物の生活。あれだけやっていた自炊も2ヶ月くらいやっていない。久しぶりにやろうかなと思い、家の扉を開け、近くのスーパーに向かったのだが、スーパーの自動ドアの前で う と固まった。めんどくさい。やっぱり吉野家にしようと吉野家へ向かい店の前まで着いたのだが、ここでまたしても う が現れた。めんどくさい。この、めんどくさいは私の子ども時代からの長年の強敵である。時にじわじわと気力を奪い、時にまさかの不意うちをくらう。


 う の野生小動物と化してしまった私は、吉野家に行くかスーパーで食材を買い自炊をするかで少しの間迷ったが、何か自炊とはいわずともサッとできるものをスーパーで買い、それを食べようというのが次に浮かんだアイディアだった。そこで目をつけたのが牛乳をかけて食べるシリアルとお湯に溶かすタイプのコーンポタージュだ。
喉もカラカラに渇き、野菜不足なのも気になる。2リットルの水と野菜ジュースも。ごくごく水を飲む。ぷはぁと酒飲みのような声がでてしまう。本当に喉が渇いた時には、水が一番美味しいと思う。それか、ドラッグストアに売っている経口補水液という謎の液体。



香ばしグラノーラ アーモンド&チョコクランチとチョコワを同じくらいの量、皿の上に開け、浸るほど牛乳を注ぎ、食べた。うーん、センチメンタルな味。や、家庭の味といった感じもある。食べ始めて気づいたが、香ばしグラノーラのパッケージには、「素材感じる大人の味わい」と書いてあるのに対して、一方チョコワはやや子どもっぽい味わいで、計らずして子どものような大人になってしまっている私には非常にマッチするシリアルの組み合わせだ。
チョコワは名前も可愛くていい。チョコの輪っかでチョコワって!そのまんまが持つ永遠の普遍性。バットマン、キャットウーマン、スパイダーマン。名前をつけるということ、もともと名前の数が少ない時代の方が明らかにやりやすいな。今のようにこれだけ名詞が氾濫している状態で名前をつける人たちは何か工夫したりずらしたり、違う言語に翻訳したりする必要がある。猫の女の人ね、キャットウーマンというのはあまりにシンプルな名付けをすることが今、むずかしいという気がする。


話が食卓に戻る。コーンポタージュには食パンをつけて食べた。この、パンに何かをディップして食べるということの私はファンである。アヒージョや固形と液体の間のようなアボカドソース。ナンをカレーにつけて食べるのも好きだが、それもある意味そうか。食パンやナンは白米のようだ。そのままになにかが足りないからこそ、周りの食べ物が生きてくる。ちょっと抜けた地味なリーダー。


満腹になり、横になる。くぅぅ。私は喉がカラカラ、お腹がグウグウな時の水の一口目、舌触りや喉を音を立てて通っていくこと、食事の一口目、それはどんな食べ物も十口目より美味しく感じること、満腹で横になることのファンでもある。かぁぁ。これが幸せなのだな。あんなに頑張っても辿り着けなかった幸せがここに。


つまり今日はなにもしていない。あんまり、この幸せな日ばかりやっていても仕方ないが、こういう日があっても良いでしょう。もう焦りに追い詰められるようなやり方はやめた。焦ることが苦手なんだと思い、自分のペースでやっていければいいな。自分のペースでいることによって逃してしまうものやことが色々あると思うけれど、そこに少しの淋しさは持ちつつ、掴んだものを大切にしていきたい。ちょっと元気になってきたが、もう22時。


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2024年3月7日

3月最初の日記。期間が空いてしまった。今日は目覚めるとひどい2日酔いだった。近所のスーパーで経口補水液と野菜ジュース、バナナを買って、イートインコーナーで飲み食いした。1日初めの飲み物1口目。ぷはぁと声がでる。あまり気にしていないが、座る時にどっこらせと言うお爺さんになる要素が私にはある。そのまま色んな食材買って自炊。2日酔いというのは、普段思わないことを思うようにできているのか、あぁ、なんでも、丁寧に袋やパッケージに入れられて売られている。もやしの袋然り、納豆は3個入りセットで丁寧に梱包されていて、キチっと積み上げられている。どの梱包も寸分違わず、目に見える違う部分としたら賞味期限の印刷くらい。奥の方に手を伸ばし1番賞味期限が遠い納豆を買った。アンディ・ウォーホルのキャンベルスープ缶の作品を思い出す。あの、本気だけど皮肉でもあるような良くわからないあり方は結構好きだ。なんとなく、ロックの時代の作品という感じがする。華々しさと自分自身や自分が生きている文明に対する自虐が同居している。だからか、ロック音楽のアルバムというものは1曲目で車の自慢をしたかと思えば、2曲目ではダメ人間のバラードになったりしていて、そういう表現の為ピエロ役を買ってでるような所も結構好きだった。まぁ、そうでない人が沢山いるのもわかるけれど、根本的に自分を下げて矛盾を楽しむユーモアがあって、そういう所に今また惹かれはじめている。甲本ヒロトの良さとラップスターの良さは結構違う気がする。と、詳しくないが今のアメリカのラッパーであまり伝統的な感じがしない人、例えばLil uzi vertの曲を聴いたりすると、も、もしかしてふざけているのでしょうかとも感じるので、文化が受け入れられ成熟してくるとちょっとおちゃらける感じの人が求められてくるのかもしれない。 暫く書いてないと指筆がはかどらない。やはりなるべく毎日書くべきだな。無料でできるのだし、何か発見をするのも文章を書いている時が多い。 唐突なコラージュみたいな文章だ。「自分にとって」絵を描くのは、やっぱり何かの為って所がもっとあった方が良いんじゃないかと思っている。今まで、絵を描くことには理由がいる→絵を描くことには理由はいらない という思考の経緯を辿っていたのだが、ここにきて違う形で当初の意識にまた戻った。違う形とは何かを考えるのなら、元々どういう形で...

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