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つづき

apple IDがわからなくなったりして前のiPhoneの引き継ぎが何もできていない。ほぼアナログの生活は気づくことが沢山あった。まとまった量の文章を読むのは紙の本の方が読みやすいということや、普段iPhoneをいじっていた時間が暇になるので頭の中でギャグを考えたりした。気分が晴れない時に考えるギャグは結構面白い。淡々と自分に対しての冷めた視点がでてくる。逆に気分が良い時はギャグを欲していない気もする。四六時中笑っている人が求めるのは意外に禅的なものだったりするのだろうか。 音楽の聴けない散歩はつまらなそうに感じたがやってみると捗った。音楽がある時は意識が音に向かうのだが、ないと行き先の無くなった意識が目の前の景色や自身の考えに向かっていった。考えは徐々に形を変えて増幅し空想になり、膨らみきるとそこに溺れ景色にはとんと興味がなくなってしまう。方向音痴なのはこのあたりにも原因がありそうだ。夕焼けで空の色が変わったり、不思議な形の雲がでてきたりしなければ歩いている中で色や形に興味を持つことはなく、自分の考え(考えというのも言葉だ)や街中の看板、地名、言葉が頭に入ってくる。この名前はなんなのか、意味の中を自分の身体が歩いた。絵を描くには満たない脳を持ち絵を描くにはどうしたら良いだろうか。 印象に残った夕焼けの色や建物の形を覚えているだろうか。私は覚えていない。覚えているといえばほとんど、印象に残ったということだけだ。だから写真を撮ったりするのだろうか。目に焼き付けるということができず、一日経って頭の中で現像してみても抽象としてのイメージしかでてこない。そんな風に、私の視覚はひたすらに一時的な映像の連続として続いてきた。誰しもそんなものなのではないかと思うのは間違いで、人によっては一度通った道はもう忘れず、住んでいる建物の窓の数まで覚えていたりする。建築的視覚とでも言うべきだろうか。それに比べると私の視覚というのは貧弱である。人間の目というものがその人にとって二つまでしか持てない以上、他の目に何が見えているのかというのは永遠にわからない。 思うに、日本の都市型の視覚というのは混乱であるが、雪景色や砂漠にある視覚というのは調和された視覚である。生活の必要から環境に応じて視覚も変化していき、雪景色の中にいる人には私には見えない白が見え、砂漠にいる人には私には見えない砂の色が見え...

2024年3月31日

3月最後の日。昨日の深夜に食べた電子レンジで温めるタイプの五目炒飯が、プラスチックのスプーンとすごくマッチしていて美味しかった。あまり好かれないのかもしれないが、こういうスプーンや、割り箸の美味しさというのもあると思った。勿論、高級な箸の美味しさもあるだろうし、ハードなハイキング中にカップ麺を食べる時、箸もフォークも何もないことに気づき、落ちている木の枝を2本拾ってひたすら洗い、その木の枝で食べる野生の美味しさもあるかもしれない。実は子どもの頃止むに止まれずやったことがあるがそれはそれは美味しかった。止むに止まれなければおすすめはしないのだが。 節約しなければいけないのだがチューブ型の水彩絵の具を9つ買った。自分の普段の生活で見慣れない色。ざっくり青と呼ぶか緑と呼ぶか迷う色たちはずっと好きだ。なにか神秘的な気持ちになる。水彩絵の具という道具自体にも神秘的なものを感じる。この、神秘っていうのをもっと突き詰めていきたいな。透けることは非常に大きい。ガラス、綺麗な海、窓、トレーシングペーパー、強く太陽に照らされた時。

2024年3月30日

落としたのが効いたのかiPhoneのカメラが変な感じになっているのでしばらく写真を撮るってことが少なくなりそう。それかこの変な感じを活かしてやってみるか。 iPhoneで書いておいて変だけれど、自分が思うこと以外のことに頼りすぎだ。ケータイとパソコンはその最たるものになっている。見たとか、聞いたとか、知ったとか、友達と共有とか、そういうことでは満足できない気持ちが突き動かされる衝動になっている。生まれてから今まで何枚写真を撮っても永遠に写真展は始まらずにペンを握る。見たいのは目の前の景色じゃないものなんだね。

2024年3月29日

自分の世界に溺れて鬱屈としている時が良くある。と、これは誰にでもあるのだろう。その鬱屈を見ないように資格の勉強をしたり、趣味を作ったり、気晴らしをしたりする。私もそうだ。キリル文字が気になっていて、昨日はロシア語の勉強をして、キリル文字のアルファベットを沢山書いた。字に馴染みがないので、文字を書きうつす時は手とか林檎を見て絵を描くような感じがした。何故かなんとなく、多言語習得しようと思った。理由は何だろう。目の前のこと、生きること暮らすこと、新鮮に感じられるからだろうか。そういう人になって見える世界が気になる。林檎をみて、りんごと思うのだろうか。違う言葉として思うのだろうか。文章を書いているという良くあることが、当たり前に誰かにとっては違う言葉なのだ。そうすると私は何か見えていないものが沢山あることになる。勿論全て見切ることはできないのだけれど、もう少しは見たい。見えているものに飽きているのかな。 中国語も漢字で似ているから良いんじゃないかと思ったけど、難しそうだった。簡単な言葉はないと思うけれど。似ているからこその難しさか。夢をゆめとか、むと読まないことがわからなくなる。一方、ヘブライ語とか、アラビア語とか、日本語とかけ離れて見える言葉は全くの赤ちゃんとしての状態で向き合えるので素直になれる。 こうして今まで書いていて、日記という性質もあるからかもしれないが、私は私が言語というものに非常に興味を持っていることがわかる。これは一つ、暮らしたり活動したりする上で何か向き合うべきテーマがここにあるという気がしている。気がしたい、のかもわからないけれど、そういうことにしておこう。言葉を学ぶことが絵の為にもなっていくと信じている。

2024年3月25日

急に活字を読む気持ちにならなくなってしまい、ここぞとばかりに音楽を聴いたり絵を見たりしている。聴いてる見ているといってもiPhoneなのだが。生のライブや生の絵を見たい気分だ。それによって何かを確信したいというより確信したものを揺らされたいという気持ち。しかしこれは今にはじまったことではない。単にそういう性格なのだろう。突然変異にゆらされぶらされることを好んでいる。意識がどんどん色んなものに浮気していく。電車に乗って田園風景からビルだらけの風景になっていくことや、電車に乗って山沿いを走っているうちに眠ってしまい起きると窓から海が見えたり、そういう移動の気晴らしで、もといた場所にアイディアを持ち帰る。そうやって吸収した明るいものも暗いものもこの身体の中に入っていて、引き出すことを上手くしていきたい。

2024年3月24日

眠さ乗り切るレッドブル。足が痛くて座って安堵する。ふかふかの布団に転がる時の気持ちを想像して幸せな気持ちする。まだなっていないのだが。この先にささやかでも希望があるということは良いことだ。眠い時とそうでない時と眠ることの価値は違うのだ。かつての砂糖やバナナは高級品だったという。手に入らなかったからだ。この、手に入るか入らないかということに人の考えが如何に左右されているかということを大きなリサイクルショップに行く度に思う。 私はどうしたいのだろう。誰もが手に入れられなかったものを手に入れたいという野望はわかるが、誰とも同じだという共感も捨て難い。誰とも違う、憧れられることのないものこそ本当で、それを大切にしたいという気持ちもある。布団に辿り着いた。寝る。

2024年3月23日

ガガガガガ、カッカッカッ、シャッシャッシャー、トトトトトト、コスコスコス、ガガガガガガetcみたいな音が絵を紙や板に絵を描くなら小さくとも鳴っていて、この音を含めて好きなのかもと思った。iPhoneに専用ペンで描くのもやってみたけど液晶をコツコツ叩く音しか聞こえなくてこの、音を含めた没入感がない。タトゥーを彫る人は手袋越しに触れる皮膚の感覚と、マシンのヴィィィィという音、皮膚にインクを入れていく時の手の感覚も混みで緊張感や懐かしさの混ざった私にはわからないような感覚を感じているのかもしれない。匂いも、そうだ。油絵の具ほどでないにしても、インクにも、アクリル絵の具にも匂いがある。 香りと匂いの違いはなんだ。香りの方がファッショナブルな雰囲気がする。なんだ、この香りは という言葉に含まれるのは、何か素敵な響きがするのに対して、なんだ、この匂いは という言葉に含まれるのは ガス、とか何か危険な響きがする。そして何故か、インクや絵の具の匂いというのは、香りと呼ぶ気になれない。良い匂いなのだが。 100円で売られるカプセルを飲めば1日中、健康状態も良く、飢えもせず生活できるようになったとしよう。そうなると最早食べ物はいらないとスーパーでもコンビニでも食材たる食材は売られなくなり、どこもかしこもがカプセル屋になったとしたら、私は自炊をさせろデモを起こすだろう。カプセルを飲むことに手触りや匂いが含まれないことに私は苛立ちを覚えたのだ。結果が一緒なら同じことだという合理主義の終点の駅の先にも土地があり、そこには非合理の世界が広がっている。あぁ、羨ましい。もやしを炒めたい。箸やスプーンを使いたい。そんなことにならないように祈った。食べることは栄養の為だろうか。本を読むことは情報を得る為だろうか。絵を見ることは。音楽を聴くとは。ひとつのことはいくつかの為であるべきだ。そして、その、「為」ということに捉われすぎないことも必要だと思う。ただ、電車に乗るのは隣や遠い駅に行く為だ。この、理由がありそれを達成しなければいけないものと、そうでもないものがある。そうでもないものというのは実はとても多いのだが、人によってはそれをもどかしく感じ、何かの為であるということにしなければ都合が良くないのかもしれない。 眠れないのでギリシャ神話の朗読を聞きながら横になっていたら更に眠れなくなってしまった。パンド...