久々に自炊。わかめの味噌汁とキャベツと玉ねぎとにんじんとなめこのどんぶりと冷奴に納豆。炒めている時の音に生活を思い出した。ささやかな楽しみをもっと楽しみにしていこうと思う。刺激に心を奪われがちだから。 こないだ祭があってこういうギンギラギンとした魅力とわびさびが共存している日本の文化は面白いと思った。私ももっとメリハリをつけよう。地味にしーんとしていることを楽しむ感覚が欠けている。塞ぎ込み沈むような感じと似たものを感じてしまうからだろうか。実際は全く別物なのだが。 片付け。整理が下手。気合いでなんとかしようとしてきた節がある。生きることに気合いという要素があったとしても気持ちも整理できず空回っていく。だめじゃこりゃ。整理整頓たまに気合いくらいのバランスであろう。ここまで書いて思ったけれど、苦手なことというのは言語化しやすい。得意なことは難しい。こうなると苦手なことこそが文章になっていくのだろうか。例えばアレルギーがあるということについては言葉にしやすいが、ないということについてはし辛い。
カフェインとらないようにしてみたら見事動けず、転がってyoutubeを眺める時間が長い一日を過ごしたのは私だけではないだろう。なんでか私は歴史とか、言語に行きがちなのだが。エンタメを吸収する時間が少ないような、もしくはエンタメでないものまでエンタメになっているような。その中でも勿論、シリアスなものから軽いものまであるけれど、この所はずっと軽いものを知ろうとしている。疲れ気味なのかこの時代のこの場所における当事者意識が薄くなってしまっているようだ。この時代しか、過ごせないのにねー。違和感は沢山。バランスとしては、自分が生まれる前の文化を振り返る、みたいな感じがしっくりくる。今できることはなんなのだろうな。この所も元気がでてきたらもっと詰めて考えていきたい。なんとなくモヤモヤと、経済観がテーマになるような気がしている。世界的な一つの経済観を志向するのでなく、オルタナティブな経済がそこかしこにあるようなあり方。これも歴史に学ばねばうまくいかないだろう。自分にとって親しみやすいか親しみ辛いかは別として、こういうあり方があるということ自体は幾つでも知っておきたい。私は触れるということとそうなるということは別物だと思っている。わかりにくいか。運動をするということと身体を動かすのが好きだということは違うということや、美術史の本を読んでいると果たして美術に興味があるのかということ。読まざるを得ないみたいなこともあるかもしれないし、今まで興味が無かったので興味を持ってみようという動機もあるかもしれない。それがそのままその人の関心になったりならなかったりする。