カフェインとらないようにしてみたら見事動けず、転がってyoutubeを眺める時間が長い一日を過ごしたのは私だけではないだろう。なんでか私は歴史とか、言語に行きがちなのだが。エンタメを吸収する時間が少ないような、もしくはエンタメでないものまでエンタメになっているような。その中でも勿論、シリアスなものから軽いものまであるけれど、この所はずっと軽いものを知ろうとしている。疲れ気味なのかこの時代のこの場所における当事者意識が薄くなってしまっているようだ。この時代しか、過ごせないのにねー。違和感は沢山。バランスとしては、自分が生まれる前の文化を振り返る、みたいな感じがしっくりくる。今できることはなんなのだろうな。この所も元気がでてきたらもっと詰めて考えていきたい。なんとなくモヤモヤと、経済観がテーマになるような気がしている。世界的な一つの経済観を志向するのでなく、オルタナティブな経済がそこかしこにあるようなあり方。これも歴史に学ばねばうまくいかないだろう。自分にとって親しみやすいか親しみ辛いかは別として、こういうあり方があるということ自体は幾つでも知っておきたい。私は触れるということとそうなるということは別物だと思っている。わかりにくいか。運動をするということと身体を動かすのが好きだということは違うということや、美術史の本を読んでいると果たして美術に興味があるのかということ。読まざるを得ないみたいなこともあるかもしれないし、今まで興味が無かったので興味を持ってみようという動機もあるかもしれない。それがそのままその人の関心になったりならなかったりする。
稚拙とはいえ久々に文章ができると、絵を描く等で発揮できず悶々とした部分が鍛えられて気持ちがいいことに気づく。無料で頭の中からでてくる可能性を手指を通して目の前に表すことに可能性を感じるのは私だけではないはずだ。しかし、最近(いつ?)は文章というものの立ち位置が微妙になってきていて、これは50年前の本(哲学書とかでなくて娯楽的な本)と今の本を読み比べると強く感じるのだが、文章、内容が簡単になっているのである。日々に追われる中でも追いつかれきらず、ボーッと考えている中で思うことなのだが、簡単、シンプル、わかりやすいというのはプレゼンテーションとして強く機能する。これがやりたい、これを受け取りたいという気持ちもわかるが、それらが強迫観念のようになってくると、結論がないものやわかりにくいもの、インパクトが弱いものは良くないものだとされてしまう。悪くしたくないので、よりわかりやすくというループに時代がハマっていると感じる。かくいう私もドツボにハマっているのだが。わかりやすく編集しているがしてしまっているという意識を持ち、わからないことをわからないままにもできる力が必要だ。その時代を反映した言葉がその時代には溢れる。文章が苦手というのは、もしかするとその時代のその場所の言語感覚が合わないだけで時代が変われば嬉々として活字に触れている人かもしれない。今、わたしはこのもう一度触れ続けてみようと試みている。
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