カフェインとらないようにしてみたら見事動けず、転がってyoutubeを眺める時間が長い一日を過ごしたのは私だけではないだろう。なんでか私は歴史とか、言語に行きがちなのだが。エンタメを吸収する時間が少ないような、もしくはエンタメでないものまでエンタメになっているような。その中でも勿論、シリアスなものから軽いものまであるけれど、この所はずっと軽いものを知ろうとしている。疲れ気味なのかこの時代のこの場所における当事者意識が薄くなってしまっているようだ。この時代しか、過ごせないのにねー。違和感は沢山。バランスとしては、自分が生まれる前の文化を振り返る、みたいな感じがしっくりくる。今できることはなんなのだろうな。この所も元気がでてきたらもっと詰めて考えていきたい。なんとなくモヤモヤと、経済観がテーマになるような気がしている。世界的な一つの経済観を志向するのでなく、オルタナティブな経済がそこかしこにあるようなあり方。これも歴史に学ばねばうまくいかないだろう。自分にとって親しみやすいか親しみ辛いかは別として、こういうあり方があるということ自体は幾つでも知っておきたい。私は触れるということとそうなるということは別物だと思っている。わかりにくいか。運動をするということと身体を動かすのが好きだということは違うということや、美術史の本を読んでいると果たして美術に興味があるのかということ。読まざるを得ないみたいなこともあるかもしれないし、今まで興味が無かったので興味を持ってみようという動機もあるかもしれない。それがそのままその人の関心になったりならなかったりする。
3月最初の日記。期間が空いてしまった。今日は目覚めるとひどい2日酔いだった。近所のスーパーで経口補水液と野菜ジュース、バナナを買って、イートインコーナーで飲み食いした。1日初めの飲み物1口目。ぷはぁと声がでる。あまり気にしていないが、座る時にどっこらせと言うお爺さんになる要素が私にはある。そのまま色んな食材買って自炊。2日酔いというのは、普段思わないことを思うようにできているのか、あぁ、なんでも、丁寧に袋やパッケージに入れられて売られている。もやしの袋然り、納豆は3個入りセットで丁寧に梱包されていて、キチっと積み上げられている。どの梱包も寸分違わず、目に見える違う部分としたら賞味期限の印刷くらい。奥の方に手を伸ばし1番賞味期限が遠い納豆を買った。アンディ・ウォーホルのキャンベルスープ缶の作品を思い出す。あの、本気だけど皮肉でもあるような良くわからないあり方は結構好きだ。なんとなく、ロックの時代の作品という感じがする。華々しさと自分自身や自分が生きている文明に対する自虐が同居している。だからか、ロック音楽のアルバムというものは1曲目で車の自慢をしたかと思えば、2曲目ではダメ人間のバラードになったりしていて、そういう表現の為ピエロ役を買ってでるような所も結構好きだった。まぁ、そうでない人が沢山いるのもわかるけれど、根本的に自分を下げて矛盾を楽しむユーモアがあって、そういう所に今また惹かれはじめている。甲本ヒロトの良さとラップスターの良さは結構違う気がする。と、詳しくないが今のアメリカのラッパーであまり伝統的な感じがしない人、例えばLil uzi vertの曲を聴いたりすると、も、もしかしてふざけているのでしょうかとも感じるので、文化が受け入れられ成熟してくるとちょっとおちゃらける感じの人が求められてくるのかもしれない。 暫く書いてないと指筆がはかどらない。やはりなるべく毎日書くべきだな。無料でできるのだし、何か発見をするのも文章を書いている時が多い。 唐突なコラージュみたいな文章だ。「自分にとって」絵を描くのは、やっぱり何かの為って所がもっとあった方が良いんじゃないかと思っている。今まで、絵を描くことには理由がいる→絵を描くことには理由はいらない という思考の経緯を辿っていたのだが、ここにきて違う形で当初の意識にまた戻った。違う形とは何かを考えるのなら、元々どういう形で...
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