稚拙とはいえ久々に文章ができると、絵を描く等で発揮できず悶々とした部分が鍛えられて気持ちがいいことに気づく。無料で頭の中からでてくる可能性を手指を通して目の前に表すことに可能性を感じるのは私だけではないはずだ。しかし、最近(いつ?)は文章というものの立ち位置が微妙になってきていて、これは50年前の本(哲学書とかでなくて娯楽的な本)と今の本を読み比べると強く感じるのだが、文章、内容が簡単になっているのである。日々に追われる中でも追いつかれきらず、ボーッと考えている中で思うことなのだが、簡単、シンプル、わかりやすいというのはプレゼンテーションとして強く機能する。これがやりたい、これを受け取りたいという気持ちもわかるが、それらが強迫観念のようになってくると、結論がないものやわかりにくいもの、インパクトが弱いものは良くないものだとされてしまう。悪くしたくないので、よりわかりやすくというループに時代がハマっていると感じる。かくいう私もドツボにハマっているのだが。わかりやすく編集しているがしてしまっているという意識を持ち、わからないことをわからないままにもできる力が必要だ。その時代を反映した言葉がその時代には溢れる。文章が苦手というのは、もしかするとその時代のその場所の言語感覚が合わないだけで時代が変われば嬉々として活字に触れている人かもしれない。今、わたしはこのもう一度触れ続けてみようと試みている。
今日は一日の途中でゴールデンウィークだと気づいた。なんとなく街並みの雰囲気も違ったからだ。路上でレッドホットチリペッパーズのコピーをやっている人たちがいてすごく良かった。ちょっとだけ踊った。can't stop addicted to the sinding. 世の中の連休といえば私にとっては昔から、忙しい日であるのだ。 世間はなんとかですねえと言ったり思ったりする時、狭く思うならそこは世間の外側、広くいくなら内側である。で、最近は内側にいるなと思っている。 iPhoneにデフォルトで内蔵されているgaragebandという音楽の打ち込みができるアプリがあるのだが、昨日今日とそれで少し遊んだりした。無料なのにあんなこともこんなこともワンタッチでできて、なんだか自分がすごい音楽をやっている人みたいな気持ちになった。気づいたら時間がたってて、気持ちはスクリレックスだったね。て、garagebandがすごいだけなのだが。少しDTMをやることに興味が向かっている。ゲームボーイを改造して色んな線をつなぎ、音楽をやったりするやつをやりたい。 楽器のビジュアルに対して多くの人が何か特定のイメージを持っている訳だけど、例えばこれがそもそもは楽器でないものを楽器にした時にどんな音楽が生まれるか、あるいは生もうとするか。そこにはそもそものイメージがない。イメージがないものをやる時に新しくイメージを生もうとしたり、ビジョンを改めて考えたりする必要に迫られるのではないか。抽象的な日記になった。
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