稚拙とはいえ久々に文章ができると、絵を描く等で発揮できず悶々とした部分が鍛えられて気持ちがいいことに気づく。無料で頭の中からでてくる可能性を手指を通して目の前に表すことに可能性を感じるのは私だけではないはずだ。しかし、最近(いつ?)は文章というものの立ち位置が微妙になってきていて、これは50年前の本(哲学書とかでなくて娯楽的な本)と今の本を読み比べると強く感じるのだが、文章、内容が簡単になっているのである。日々に追われる中でも追いつかれきらず、ボーッと考えている中で思うことなのだが、簡単、シンプル、わかりやすいというのはプレゼンテーションとして強く機能する。これがやりたい、これを受け取りたいという気持ちもわかるが、それらが強迫観念のようになってくると、結論がないものやわかりにくいもの、インパクトが弱いものは良くないものだとされてしまう。悪くしたくないので、よりわかりやすくというループに時代がハマっていると感じる。かくいう私もドツボにハマっているのだが。わかりやすく編集しているがしてしまっているという意識を持ち、わからないことをわからないままにもできる力が必要だ。その時代を反映した言葉がその時代には溢れる。文章が苦手というのは、もしかするとその時代のその場所の言語感覚が合わないだけで時代が変われば嬉々として活字に触れている人かもしれない。今、わたしはこのもう一度触れ続けてみようと試みている。
3月最初の日記。期間が空いてしまった。今日は目覚めるとひどい2日酔いだった。近所のスーパーで経口補水液と野菜ジュース、バナナを買って、イートインコーナーで飲み食いした。1日初めの飲み物1口目。ぷはぁと声がでる。あまり気にしていないが、座る時にどっこらせと言うお爺さんになる要素が私にはある。そのまま色んな食材買って自炊。2日酔いというのは、普段思わないことを思うようにできているのか、あぁ、なんでも、丁寧に袋やパッケージに入れられて売られている。もやしの袋然り、納豆は3個入りセットで丁寧に梱包されていて、キチっと積み上げられている。どの梱包も寸分違わず、目に見える違う部分としたら賞味期限の印刷くらい。奥の方に手を伸ばし1番賞味期限が遠い納豆を買った。アンディ・ウォーホルのキャンベルスープ缶の作品を思い出す。あの、本気だけど皮肉でもあるような良くわからないあり方は結構好きだ。なんとなく、ロックの時代の作品という感じがする。華々しさと自分自身や自分が生きている文明に対する自虐が同居している。だからか、ロック音楽のアルバムというものは1曲目で車の自慢をしたかと思えば、2曲目ではダメ人間のバラードになったりしていて、そういう表現の為ピエロ役を買ってでるような所も結構好きだった。まぁ、そうでない人が沢山いるのもわかるけれど、根本的に自分を下げて矛盾を楽しむユーモアがあって、そういう所に今また惹かれはじめている。甲本ヒロトの良さとラップスターの良さは結構違う気がする。と、詳しくないが今のアメリカのラッパーであまり伝統的な感じがしない人、例えばLil uzi vertの曲を聴いたりすると、も、もしかしてふざけているのでしょうかとも感じるので、文化が受け入れられ成熟してくるとちょっとおちゃらける感じの人が求められてくるのかもしれない。 暫く書いてないと指筆がはかどらない。やはりなるべく毎日書くべきだな。無料でできるのだし、何か発見をするのも文章を書いている時が多い。 唐突なコラージュみたいな文章だ。「自分にとって」絵を描くのは、やっぱり何かの為って所がもっとあった方が良いんじゃないかと思っている。今まで、絵を描くことには理由がいる→絵を描くことには理由はいらない という思考の経緯を辿っていたのだが、ここにきて違う形で当初の意識にまた戻った。違う形とは何かを考えるのなら、元々どういう形で...
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