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8月, 2022の投稿を表示しています

ごっちゃと分業

世の中の色々なことが分業制を基に進んでいるのだが、こういう風に分業するのが当たり前になったのはいつからなのだろう。2022年、その分業制は場所によっては崩壊し、別の場所では不健全な形で成立し、また別の場所ではしっかりと機能している。私やあなたはどこの場所にいるのだろうか。人によってはアイデンティティの大きな割合を分業された中のどの業をしているのかということが担っている。 私はどちらかというと、そういう分業の垣根が曖昧に、ごちゃごちゃになりがちだ。これは良くも悪くも機能する。良く機能させる用に心がける。そして、良く機能させる場合にも問題はある。それは、何がしたいのか分かりづらいと思われるということだ。職人肌の人や、そうでなくても人間というものは役割を規定し、規定されるものと考える人には意味がわからない存在なのだ。ただ、色んなことがごっちゃになる人は何をどう足掻いてもごっちゃになってしまう。それをどう活かし、活かせないなら頭の中はごっちゃなままその困難を分割し、どう生活していくのかということを考えていく必要がある。 そもそもごっちゃになったのには理由がある。もう少し子どもの頃にはこれはこれとシンプルに考えていたような気もする。例えば、音楽を聴く時、中学生の頃は、私は60年代〜80年代のイギリスとアメリカのロックが好きだったのだが、この音が良いなとか、この曲が好きだとか、声が良いなとか、凄い演奏だとか、ただシンプルに音楽を音楽として聴いていた。これが高校生になり、周りの人が音楽というものに対してどう考えているかに触れるにつれて、そしてそれに影響されごちゃごちゃになっていった。それは、こういう音楽をやる人はこういう服を着ているとか、そのバンドの出身地だとか、なんていうジャンルの中の、そこから派生したものだとか、年代とか、そういうことは中学生の時一人でツタヤや図書館に入り浸りCDを借りて聴いていた時は考えたことが無かったのである。なんとなく音として聴いて良いと思って好きだという、楽器、声、ドレミファソラシド、CDEFGABということに対してだけひたすら忠実であり、あまりファッションだとか、思想だとか、そういうものが入ってくる余地が無かったことを記憶している。しかし、それが人の話を聞くにつれて雪崩のように入ってきた。穏やかな海からスクランブル交差点に投げ込まれた私の考えはぐんぐ...

ログイン

ログイン 日記のログイン方法がわからなくなり放置してしまった。しかし、わかったのである。 文章を継続的に書いた後に書かない時間に置かれると、言葉が頭の中に貯まるような感覚になり、シャワーを浴びずに一日が終わっていくような気持ちの悪さもある。これは不思議なことなのだが、十年ほど前に色彩検定という資格を取った時には歩きながら、あれはライトブラウン!なんて思っていたので、気になっている、最近まで気にしていたことだけが記憶や見えるもの、聞こえるものになっていく。何かのきっかけで忘れていたことをするすると芋づる式に思い出したり、何かの話に感銘を受けるとその前と後で見える世界が変わったりする。これは良くも悪くも逃れられないことなので、どうそれを良く使っていくのかということを考えていかなくては。今は甲子園の時期でもあれば、何か悲惨な事件が起きている時期でもあるし、そのことについて楽しくも悲しくもなれる。今の私はどういう時期だと思おうとしているだろうか。 どう思わないかということは簡単なことである。幾らでも思いつくが、どう思うかというのは私にとって少し難易度が高いことでもある。子どもの頃に、周りの人が言うことに対して、それは違うとか、そうとは限らないと思って皮肉を言ったりしていたのが影響していると思う。今思うと、あの時に思わない訓練や反発する訓練でなく、思う、空想を計画に落とし込み実行する訓練をしておけば良かったのだが、それを悔いても仕方がない。今、訓練しているところで、これから徐々に発揮していくのだ。 思わないということから得たものもあったが、それは只の感情のはじまりであった。そのスタート地点で止まってしまうのは勿体無い。そしていつも何も始まらなかった。そこから、それじゃあどうするべきなのか、いや、べきなんてものは無く、どうしていきたいのかということを考え続け、時にそれが変わってしまっても、統一感の無さなんて気に留めず暮らしていくことがやりたい。 生真面目に「計画し、、」とか書いているが、適当でも良いのである。とにかく、完璧な下書きなんかせず、多少曖昧さや雑さがある下書きでもその後にある偶然や突発的なことに愛されると信じて色を塗ってみることだ。これからまた毎日日記も書いていく。

人工知能

  今日はマルセルデュシャンとDJという題で書きたいと思っていたのだが、中々考えがまとまらないので止める。この、レディメイドという概念とDJの選曲というものを繋げて言語化したいという考えは何年も前からあるのだが、まだまだまとめる力が足りない。精進。 昨日気になっていた人工知能によるペイントについて今日も引き続き気になったのでartomationというアプリとdreamというアプリをインストールして遊んだ。二つとも人工知能を使いビジュアルを生成するアプリだ。しかし、artomationの方はどこで人工知能が作用しているのか良くわからない。写真を読み込ませて、それを油絵風にしたり色鉛筆風にしたり、筆致を変えたりすることができるのだが、これはphotoshopでもできる。dreamの方はすごい。80文字以内でテキストを入力し、エフェクトを選ぶと、そのテキストから連想されるビジュアルが生成される。しかもそれがまた、tokyoと入力すれば東京がでてくるとかではなく、東京っぽい何か抽象的なコラージュのようなビジュアルが登場するのである。 遊び半分のお試しで使ってみただけだったが、hiphopだとかpunkだとか思いつく限りの名詞を入力し、サルバドールダリのエフェクトも良いななんてやっていたら結果ハマりにハマり2時間。凡庸な時も多いのだが、たまに人間では思いつかなそうな驚異のビジュアルがでてくるのに興奮するのは、ゲームのガチャだとか、遊戯王カードのパックを買って開けてレアカードが出た時のそれに似ているだろうか。こういう新しいツールに懐疑的だったが、案外好きかもしれない。昔は自分が生まれる以前の古いものが好きで、なんだかレトロ趣味なのかなと思っていたのだが、その時の自分にとってその古さが新しく見えたから好きだったのだ。多分どちらかというと新しいもの好きなのだ。それは社会的に新しいということを意味せず、個人的に新しい風が頭の中に吹き込む瞬間のことである。そしてその内容というよりそこにある刺激自体を好んでいるという気がする。こうしてテキストを書くことも知っていることを確認したり備忘録として残すというよりも、新しく発見し直すという作業である。結果備忘録にもなるのだが。

8月

  この四日間、夜は酒に酔い、朝は強烈な二日酔い、昼もちょっと二日酔い、夕方は普通という楽しい日々だったのでここからシャキッとする。カバンの中にはコルトレーンというその名の通りジョン・コルトレーンの生涯についてまとめた本があり、電車の中ではそれを読んでいたのだが、酒を飲んだ私は頭が良くないらしく、頭に文章が入ってこない。ニューヨークのハーレムには、禁酒法の時代、三万〜五万の酒場があったという記述を覚えている。あと、悪徳政治家が国のルールを無視してカンザンスシティという自治区を勝手に作ってしまったとかなんとか。 本が読めなくなるとTwitterを見る。私は特に何か書くことは無いのだが、見る分にはTwitterはライト活字という感じがして、長文は読めないが何某かの言葉を見たいという都合の良い人間の時に重宝する。私は流動的にただただ流れている情報の中に意識を突っ込み、考えをぶらしたり、あっちにふらふら、こっちにふらふら、あれも良いしこれも良い、それも良いのかもしれないというのが向いている人なのだということを実感している。頭の中をニューヨークみたくあらゆるものの坩堝にしておくことが大切だ。これは人によっては刹那的で中途半端と感じ、不安になったりしてしまうことらしいのだが、私はむしろそうでない時こそ不安を感じている。その時、謎の髪飾りをつけた老人に話しかけられたみたいなことが好きであり、道に転がっている人がいたりする方が安心するのだ。隙間や暗い部分も光に照らされている場所。 そんなふらふらディガーの私が今気になっているのは人工知能の制作した絵画である。ディガーというか、電車でTwitterを見ているだけの人なのだが、その中に適当に描いたイラストデータを読み込み、そのデータを基に人工知能が描写をするというのがあるのだが、それが精巧なマシーンになったり、おとぎの国の風景画になったりする。このことに関心がある。というのは、そこから生まれるビジュアルに関心があるというよりも、その技術が一般に浸透して、ペイント人工知能をサブスク登録したのでその絵で展示をやりますという人が案外バンバンでてきた場合のことである。これは何も絵に限った話では無く、Hey Siri 格好良いビートを作ってよ! なんて言ったらできちゃっただとか、色々想像はつく。その時にどう思うかという所で人の反応は一見真...