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8月

 この四日間、夜は酒に酔い、朝は強烈な二日酔い、昼もちょっと二日酔い、夕方は普通という楽しい日々だったのでここからシャキッとする。カバンの中にはコルトレーンというその名の通りジョン・コルトレーンの生涯についてまとめた本があり、電車の中ではそれを読んでいたのだが、酒を飲んだ私は頭が良くないらしく、頭に文章が入ってこない。ニューヨークのハーレムには、禁酒法の時代、三万〜五万の酒場があったという記述を覚えている。あと、悪徳政治家が国のルールを無視してカンザンスシティという自治区を勝手に作ってしまったとかなんとか。


本が読めなくなるとTwitterを見る。私は特に何か書くことは無いのだが、見る分にはTwitterはライト活字という感じがして、長文は読めないが何某かの言葉を見たいという都合の良い人間の時に重宝する。私は流動的にただただ流れている情報の中に意識を突っ込み、考えをぶらしたり、あっちにふらふら、こっちにふらふら、あれも良いしこれも良い、それも良いのかもしれないというのが向いている人なのだということを実感している。頭の中をニューヨークみたくあらゆるものの坩堝にしておくことが大切だ。これは人によっては刹那的で中途半端と感じ、不安になったりしてしまうことらしいのだが、私はむしろそうでない時こそ不安を感じている。その時、謎の髪飾りをつけた老人に話しかけられたみたいなことが好きであり、道に転がっている人がいたりする方が安心するのだ。隙間や暗い部分も光に照らされている場所。

そんなふらふらディガーの私が今気になっているのは人工知能の制作した絵画である。ディガーというか、電車でTwitterを見ているだけの人なのだが、その中に適当に描いたイラストデータを読み込み、そのデータを基に人工知能が描写をするというのがあるのだが、それが精巧なマシーンになったり、おとぎの国の風景画になったりする。このことに関心がある。というのは、そこから生まれるビジュアルに関心があるというよりも、その技術が一般に浸透して、ペイント人工知能をサブスク登録したのでその絵で展示をやりますという人が案外バンバンでてきた場合のことである。これは何も絵に限った話では無く、Hey Siri 格好良いビートを作ってよ! なんて言ったらできちゃっただとか、色々想像はつく。その時にどう思うかという所で人の反応は一見真っ二つに割れるはずである。あらゆる人工知能をサブスク登録している絵の具を持ったことが無い画家、カイザー!これぞ新時代と叫ぶ人から、それをハードに拒否し、物質としての絵の具に徹底的にこだわる人もいるはずである。その時に私も当事者である。一体何を思い、どうしたいと思うのだろうか。

家に届く沢山のチラシをコラージュしてその上に絵を描いたりしていたのだが、今日久々に開けたポストに届いていたチラシが尋常じゃない量だったので捨てた。ボロボロで履けなくなったスニーカー達
も無理矢理バイブスで履いていたのだが、そろそろ目線を未来に向けようと思ったのもあり捨てた。私は半端にエコ思考のようなものがあり、Tシャツは穴が空いても着るのだが、スニーカーは消耗品と考えようと思った。明日はマルセルデュシャンとDJについて書きたい。

コメント

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2024年3月7日

3月最初の日記。期間が空いてしまった。今日は目覚めるとひどい2日酔いだった。近所のスーパーで経口補水液と野菜ジュース、バナナを買って、イートインコーナーで飲み食いした。1日初めの飲み物1口目。ぷはぁと声がでる。あまり気にしていないが、座る時にどっこらせと言うお爺さんになる要素が私にはある。そのまま色んな食材買って自炊。2日酔いというのは、普段思わないことを思うようにできているのか、あぁ、なんでも、丁寧に袋やパッケージに入れられて売られている。もやしの袋然り、納豆は3個入りセットで丁寧に梱包されていて、キチっと積み上げられている。どの梱包も寸分違わず、目に見える違う部分としたら賞味期限の印刷くらい。奥の方に手を伸ばし1番賞味期限が遠い納豆を買った。アンディ・ウォーホルのキャンベルスープ缶の作品を思い出す。あの、本気だけど皮肉でもあるような良くわからないあり方は結構好きだ。なんとなく、ロックの時代の作品という感じがする。華々しさと自分自身や自分が生きている文明に対する自虐が同居している。だからか、ロック音楽のアルバムというものは1曲目で車の自慢をしたかと思えば、2曲目ではダメ人間のバラードになったりしていて、そういう表現の為ピエロ役を買ってでるような所も結構好きだった。まぁ、そうでない人が沢山いるのもわかるけれど、根本的に自分を下げて矛盾を楽しむユーモアがあって、そういう所に今また惹かれはじめている。甲本ヒロトの良さとラップスターの良さは結構違う気がする。と、詳しくないが今のアメリカのラッパーであまり伝統的な感じがしない人、例えばLil uzi vertの曲を聴いたりすると、も、もしかしてふざけているのでしょうかとも感じるので、文化が受け入れられ成熟してくるとちょっとおちゃらける感じの人が求められてくるのかもしれない。 暫く書いてないと指筆がはかどらない。やはりなるべく毎日書くべきだな。無料でできるのだし、何か発見をするのも文章を書いている時が多い。 唐突なコラージュみたいな文章だ。「自分にとって」絵を描くのは、やっぱり何かの為って所がもっとあった方が良いんじゃないかと思っている。今まで、絵を描くことには理由がいる→絵を描くことには理由はいらない という思考の経緯を辿っていたのだが、ここにきて違う形で当初の意識にまた戻った。違う形とは何かを考えるのなら、元々どういう形で...

つづき

apple IDがわからなくなったりして前のiPhoneの引き継ぎが何もできていない。ほぼアナログの生活は気づくことが沢山あった。まとまった量の文章を読むのは紙の本の方が読みやすいということや、普段iPhoneをいじっていた時間が暇になるので頭の中でギャグを考えたりした。気分が晴れない時に考えるギャグは結構面白い。淡々と自分に対しての冷めた視点がでてくる。逆に気分が良い時はギャグを欲していない気もする。四六時中笑っている人が求めるのは意外に禅的なものだったりするのだろうか。 音楽の聴けない散歩はつまらなそうに感じたがやってみると捗った。音楽がある時は意識が音に向かうのだが、ないと行き先の無くなった意識が目の前の景色や自身の考えに向かっていった。考えは徐々に形を変えて増幅し空想になり、膨らみきるとそこに溺れ景色にはとんと興味がなくなってしまう。方向音痴なのはこのあたりにも原因がありそうだ。夕焼けで空の色が変わったり、不思議な形の雲がでてきたりしなければ歩いている中で色や形に興味を持つことはなく、自分の考え(考えというのも言葉だ)や街中の看板、地名、言葉が頭に入ってくる。この名前はなんなのか、意味の中を自分の身体が歩いた。絵を描くには満たない脳を持ち絵を描くにはどうしたら良いだろうか。 印象に残った夕焼けの色や建物の形を覚えているだろうか。私は覚えていない。覚えているといえばほとんど、印象に残ったということだけだ。だから写真を撮ったりするのだろうか。目に焼き付けるということができず、一日経って頭の中で現像してみても抽象としてのイメージしかでてこない。そんな風に、私の視覚はひたすらに一時的な映像の連続として続いてきた。誰しもそんなものなのではないかと思うのは間違いで、人によっては一度通った道はもう忘れず、住んでいる建物の窓の数まで覚えていたりする。建築的視覚とでも言うべきだろうか。それに比べると私の視覚というのは貧弱である。人間の目というものがその人にとって二つまでしか持てない以上、他の目に何が見えているのかというのは永遠にわからない。 思うに、日本の都市型の視覚というのは混乱であるが、雪景色や砂漠にある視覚というのは調和された視覚である。生活の必要から環境に応じて視覚も変化していき、雪景色の中にいる人には私には見えない白が見え、砂漠にいる人には私には見えない砂の色が見え...

ゆうーつ

 フライヤーができた。できる前の生活を反省する。ぐだぐだぐだぐだぐ… 一体何をやっているのだ。散歩したり頭を掻きむしったりする前にもう少し思ったことに集中したらどうだ。もう少しストイックでいて良いのじゃないかと思った。しかし、ここで気合いと根性といったような出来もしない体育会系を自分に対して向けるのはまずくいくだろう。工夫だ。工夫。 例えば、何かのアレルギーがある人は工夫の大切さを知るはずなのである。これを食べるとこうなるからとか、金属アレルギーだけどアクセサリーをつけたいから、こういう素材のものを、というのがあるはずなのだ。 そういう人に比べると私はただその場の思いつきに任せ過ぎなのだ。生活、流れていく時間、感情や欲という闘牛士がひらひらさせる赤い布に突撃する私は牛。紙に書いた自分との約束なんかしれっと破り、何時に寝て何時に起きるか、そういうことも自分でわからなかったのだ。 まぁ、あまり自分を責めるのは止めよう。ただ、中々できなくとも、変わろうという意思を持ち続けることは忘れずに。一気に変えようとしてもリバウンドがくるし、潔く自分のことを諦めるのもやっぱり違う。大事なことはいさぎわるく。 果たして、この自己満足という四字熟語がばっちり似合うこの日記はどこへ向かうのか。今日はぐだぐだしていた時間にこのことについて考えた。ひとまず、日記のことは置いといて、自己満足というやや嫌われがちな言葉について考えてみた。中学生くらいの頃、山田かまちの詩で、自己満足、、という言葉ではなかった。自己中心についてしっかり考えないと、他人中心になってしまう、、という言葉だったか失念してしまったのだが、とにかくそういうことを書いている詩があった。他の詩にも、自己中心という言葉がでてきた。そうした、悪い意味とされる言葉を一度自分の中で噛み砕き、それが結果悪かったとしても、、そういう試みが気になる。あるかどうかもわからない未来よりも輝かしい過去の方が良いというのはリリー・フランキーさんの言。 私は、自己満足が他人の満足につながるようなことが良いと思っている。その為にも絵を描いていきたい。自己満足と公共のマリアージュというのが今日頭の中に浮かんだ言葉であった。その時、ドリームシアターのENEMY INSIDEを聴いていた。間奏のプログレな展開、カオスに盛り上がる部分は部活を辞めて暇で暇で...