この四日間、夜は酒に酔い、朝は強烈な二日酔い、昼もちょっと二日酔い、夕方は普通という楽しい日々だったのでここからシャキッとする。カバンの中にはコルトレーンというその名の通りジョン・コルトレーンの生涯についてまとめた本があり、電車の中ではそれを読んでいたのだが、酒を飲んだ私は頭が良くないらしく、頭に文章が入ってこない。ニューヨークのハーレムには、禁酒法の時代、三万〜五万の酒場があったという記述を覚えている。あと、悪徳政治家が国のルールを無視してカンザンスシティという自治区を勝手に作ってしまったとかなんとか。
本が読めなくなるとTwitterを見る。私は特に何か書くことは無いのだが、見る分にはTwitterはライト活字という感じがして、長文は読めないが何某かの言葉を見たいという都合の良い人間の時に重宝する。私は流動的にただただ流れている情報の中に意識を突っ込み、考えをぶらしたり、あっちにふらふら、こっちにふらふら、あれも良いしこれも良い、それも良いのかもしれないというのが向いている人なのだということを実感している。頭の中をニューヨークみたくあらゆるものの坩堝にしておくことが大切だ。これは人によっては刹那的で中途半端と感じ、不安になったりしてしまうことらしいのだが、私はむしろそうでない時こそ不安を感じている。その時、謎の髪飾りをつけた老人に話しかけられたみたいなことが好きであり、道に転がっている人がいたりする方が安心するのだ。隙間や暗い部分も光に照らされている場所。
そんなふらふらディガーの私が今気になっているのは人工知能の制作した絵画である。ディガーというか、電車でTwitterを見ているだけの人なのだが、その中に適当に描いたイラストデータを読み込み、そのデータを基に人工知能が描写をするというのがあるのだが、それが精巧なマシーンになったり、おとぎの国の風景画になったりする。このことに関心がある。というのは、そこから生まれるビジュアルに関心があるというよりも、その技術が一般に浸透して、ペイント人工知能をサブスク登録したのでその絵で展示をやりますという人が案外バンバンでてきた場合のことである。これは何も絵に限った話では無く、Hey Siri 格好良いビートを作ってよ! なんて言ったらできちゃっただとか、色々想像はつく。その時にどう思うかという所で人の反応は一見真っ二つに割れるはずである。あらゆる人工知能をサブスク登録している絵の具を持ったことが無い画家、カイザー!これぞ新時代と叫ぶ人から、それをハードに拒否し、物質としての絵の具に徹底的にこだわる人もいるはずである。その時に私も当事者である。一体何を思い、どうしたいと思うのだろうか。
家に届く沢山のチラシをコラージュしてその上に絵を描いたりしていたのだが、今日久々に開けたポストに届いていたチラシが尋常じゃない量だったので捨てた。ボロボロで履けなくなったスニーカー達
も無理矢理バイブスで履いていたのだが、そろそろ目線を未来に向けようと思ったのもあり捨てた。私は半端にエコ思考のようなものがあり、Tシャツは穴が空いても着るのだが、スニーカーは消耗品と考えようと思った。明日はマルセルデュシャンとDJについて書きたい。
コメント
コメントを投稿