世の中の色々なことが分業制を基に進んでいるのだが、こういう風に分業するのが当たり前になったのはいつからなのだろう。2022年、その分業制は場所によっては崩壊し、別の場所では不健全な形で成立し、また別の場所ではしっかりと機能している。私やあなたはどこの場所にいるのだろうか。人によってはアイデンティティの大きな割合を分業された中のどの業をしているのかということが担っている。
私はどちらかというと、そういう分業の垣根が曖昧に、ごちゃごちゃになりがちだ。これは良くも悪くも機能する。良く機能させる用に心がける。そして、良く機能させる場合にも問題はある。それは、何がしたいのか分かりづらいと思われるということだ。職人肌の人や、そうでなくても人間というものは役割を規定し、規定されるものと考える人には意味がわからない存在なのだ。ただ、色んなことがごっちゃになる人は何をどう足掻いてもごっちゃになってしまう。それをどう活かし、活かせないなら頭の中はごっちゃなままその困難を分割し、どう生活していくのかということを考えていく必要がある。
そもそもごっちゃになったのには理由がある。もう少し子どもの頃にはこれはこれとシンプルに考えていたような気もする。例えば、音楽を聴く時、中学生の頃は、私は60年代〜80年代のイギリスとアメリカのロックが好きだったのだが、この音が良いなとか、この曲が好きだとか、声が良いなとか、凄い演奏だとか、ただシンプルに音楽を音楽として聴いていた。これが高校生になり、周りの人が音楽というものに対してどう考えているかに触れるにつれて、そしてそれに影響されごちゃごちゃになっていった。それは、こういう音楽をやる人はこういう服を着ているとか、そのバンドの出身地だとか、なんていうジャンルの中の、そこから派生したものだとか、年代とか、そういうことは中学生の時一人でツタヤや図書館に入り浸りCDを借りて聴いていた時は考えたことが無かったのである。なんとなく音として聴いて良いと思って好きだという、楽器、声、ドレミファソラシド、CDEFGABということに対してだけひたすら忠実であり、あまりファッションだとか、思想だとか、そういうものが入ってくる余地が無かったことを記憶している。しかし、それが人の話を聞くにつれて雪崩のように入ってきた。穏やかな海からスクランブル交差点に投げ込まれた私の考えはぐんぐん成長していった。
この、音楽とファッションや思想や年代とか、そういうものがごっちゃになることを、人はカルチャーと呼んでいる。そして、カルチャーという言葉は色んな人に好まれて使われている。これは、人はシンプルに音だけを聴いたり、絵なら絵の色や形だけを見たりすることが難しいことを示しているとも思う。そこには生まれた背景があり、こういう考え方があり、歴史があり、とか、そういうことに想像を及ばせることや事実とされることを知ろうとすることを好むのだ。賢い人たちは文脈と呼んだりする。
全てを切り分けて考えている人はいなく、ある程度ごっちゃになっているということが人の考えのスタンダードとなっていると思うのだが、その中でごっちゃになっている人、そう「思われる」人というのは何なのかと考えた場合に、そこには二つパターンがあるという風に思った。一つは、TPOにそぐわない行動をしている場合と、二つ目は、ごっちゃになるAとBの組み合わせがマイノリティである場合である。
一つ目は分かりやすい。例えば、日本の電車でたまたま隣の席になった人に身の上話をはじめる人。これは、知人と知らない人がごっちゃになっている。これはTPOにそぐわない行動と2022年の日本ではされるのだが、日本と言っても私は行ったことの無い場所がほとんどなので、普通のこととされる地域もあるのかもしれないし、これからはわからない。そして遡れば、戦後間もない昭和の東京では頻繁にありそうな光景ではある。TPOのTime(時間)、Place(場所)、Occasion(場面)の中で、Occasion、場面というのは他の二つと性質を異にしていると思う。2022年の8月の夜というTime(時間)、中央線の車内というPlace(場所)というのは単なる事実であるのだが、Occasion(場面)というのは不思議な言葉である。場所と、場面というのはどう違うのだろうか。2022年の8月の夜の中央線の車内というのは、場面とは呼ばないのだろうか。
場面という言葉の意味は、時間と場所と違い、個々人が規定している面があると思う。時間と場所というのは客観的事実であるのだが、場面というのは、これが良い場面なのか悪い場面なのか、住んでいる所に帰る場面なのかどこかに向かう場面なのかというのは文字通り人それぞれ違うのだ。TPOの場面だけは今この瞬間も常に揺らぎ、主観としてぽんと浮かんでいる。そのどの部分にアクセスするか。
二つ目の、ごっちゃになるAとBになる組み合わせがマイノリティというのも私がそうだったので沢山想像が及ぶ。私は高校生の頃はダンスをやりながらヘビーメタルを聴いていたりしたので、わかりやすくごっちゃに見えていた。その二つは結びつかないものとその時は考える派が主流だったからだ。これが、ダンスとスケートボードとかだったらまた違っただろう。それもごっちゃには違いないのだが。なんとなく、親和性があると考えられるものと、ないと考えられるものがあって、ないと思われることを、いや、私の中ではあるのだと言ったり態度で示したりするとごっちゃということになる。このことは私にとって、ごっちゃの誇りではなく、ごっちゃの悩みであった。
しかし、近年では状況が変わってきている。変わってきたと思ったのは、2016年くらいだろうか。ラッパーがNIRVANAのTシャツを着たり言及したり、そもそも私が知らないだけで元からそういう人もいたのかもしれないが、わかりやすくそういう人達が増えてきた時だ。そしてその傾向は今も続いているという風に感じている。良くわからないが、時代は混ざるという方向に常に向かうという確信がある。
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